異説・柿本人麻呂ーその3-水底の歌
(柿本人麻呂像)
妻の病気などで暫くブログが途絶えたが、妻の足の病も小康をえたのでブログを再開する。小林恵子(やすこ)のテキストによる人麻呂説は今回を持って一先ず筆を措き、「万葉の世界」のテーマは「日本古代史」の中に収斂される。
前回までの記述では、人麻呂が百済からの亡命貴族で、幼い頃倭国にやってきて大海人皇子の庇護を受け、その長子とされる高市皇子と一緒に育てられたと言うが、小林恵子説は更に飛躍し、中大兄皇子と大海人皇子とは兄弟なんかではなく、大海人皇子の方が年上で、中大兄皇子は百済王子で、大海人皇子は高句麗の武将で中大兄皇子とは赤の他人。二人は済州島で知り合い、一緒に倭国に来たらしい。更に大海人皇子と額田王の間に出来た子とされる高市皇子は、本当は中大兄皇子が済州島に居た時、地方の女に生ませた子であるという。
小林恵子の説は、中国や朝鮮で今に残る古代アジアに関する膨大な文献資料(日本では720年日本書紀が編纂された時、藤原政権によって尽く焼き捨てさせられた)を比較検証することによって得られた情報に基づくものである。従って我々が国から教えられた偽装古代史に基づく通説とは大きく異なるのは当然である。
日本書紀は、672年壬申の乱を、天智天皇(中大兄皇子)の没後、長子で皇太子であった大友皇子と大海人皇子の皇位争いと記述しているが、元々大海人皇子には皇位継承の資格など無かったのだ。高市の皇子は、自分こそ天智天皇の直系で皇位を継ぐべきだと思って大海人皇子と一緒に戦ったのに、皇位は大海人皇子に横取りされてしまった。大海人皇子は資格もないのに天武天皇となり、それを藤原一族が権力拡大に利用するため担いだ。だから天智系の高市皇子の即位も高市皇子と兄弟のように親しかった人麻呂の名も日本書紀から一切消されてしまった。
天武帝を利用して権力を握った藤原氏は、天智系の巻き返しを恐れて、徹底的に弾圧した。長屋王を謀殺したのもそに一端である。人麻呂が僻地へ流され刑死したのも、藤原政権に疎まれたからに他ならない。古今集の著者・紀貫之は、人麻呂が罪無くして政治的理由で非業の死を遂げたことを知っていたと思われる節がある。
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