八海老人日記 -5ページ目

島の娘

 来る6月7日に予定されている華兆家元さんの小唄会にゲストとして招かれて、家元さんご作曲の「島の娘」を唄うべく、家元さんから送られてきたテープと目下格闘取り組み中。「島の娘」と言えば、かつて「ハアー 島で育てば・・・」の歌謡曲で一世を風靡した小唄勝太郎の美声を思い出さずにはいられない。


 小唄勝太郎(本名・佐藤カツ。1949年に結婚して真野カツ。)は、1904年(明治37年、日露戦争の始まった年)、新潟県沼垂(ぬったり、後新潟市に編入)で生まれた。幼い頃、沼垂の老舗料亭「鶴善」の養女となり、生来の芸事好きで、三味線、日本舞踊、清元などに一心不乱に打ち込んだ。大正末期、22歳の頃、好きだった清元の師匠になりたくて上京したが、世間はそんなに甘くは無かった。葭町に籍を置き、勝太郎と名乗って芸者に出た。


 折しも昭和初期、レコード産業の黎明期に当り、同じ葭町の芸者で、藤本秀夫(後の民謡の大家・藤本秀丈)と組んで端歌・俗曲を唄っていた藤本二三吉が、「浪花小唄」や「祇園小唄」のレコードがヒットするや、美声で評判だった勝太郎もオデオンレコードからスカウトされ、レコード歌手としての第一歩を踏み出した。1931年(昭和6年)には、日本ヴィクターと正式に契約して専属歌手となり、次々とレコードを出した。特に昭和8年に発売された「島の娘」(長田幹彦作詞、佐々木俊一作曲)は大ヒットし、発売3ヶ月で35万枚を売り上げ、勝太郎は一躍スターダムに伸し上がった。


 長田幹彦作詞、佐々木俊一作曲の「島の娘」がどんな唄だったかと言えば、「島育ちで十六歳の初な娘が、漁師の男と始めて恋をし、人目を忍んで一夜情を交わ

すが、男は船乗り、時化に遭って海の底に沈んでしまった。千鳥よ泣いてくれるな、私は捨て小舟。」という唄で、佐々木俊一の作曲が勝太郎の美声を活かし、ハアーの出だしは、勝太郎ならではのヴァイブレーションのない邦楽特有の澄んだ高い声で始まる。日本人ならこの声に魅せられない者は居なかったという。


 所が残念なことに、昭和12年、満州事変が起きて戦時色が次第に強まるにつれ、当局より「島の娘」は歌詞に問題ありとされ、勝太郎が戦地へ慰問の出かけこの唄を唄う時は、歌詞の一部を改作させられ、最後は唄うことも禁止されてしまった。


 市川摂さんの作詞された「島の娘」の歌詞は、「粋なつぶしや方笑窪 ほのめく唄に咲いた花 夢を残していった人 その名惜しめば降る雪に 主と一夜の仇情 今も聞こえてくるような、島の娘に泣く千鳥」で、市川摂さんのことはよく存じ上げないが、八海老人の勝手な想像で申せば、この唄はむしろ勝太郎の一生を投影しているように思われる。


 小唄勝太郎は、レコード歌手として日本ヴィクターから二百枚近いレコードを出し、中でも「東京音頭」は、今も日本全国の盆踊りには欠かせない唄となっている。

昭和46年には、国民的歌手として、歌謡界では初めてという紫綬褒章を受けたが、勝太郎の本当の夢は、清元や小唄をやりたかったのではないか。木村菊太郎氏の名著・昭和小唄その一の413頁から415頁に小唄勝太郎の作った「新小唄」についての記事を載せており、晩年は江戸小唄に親しんだらしいが、小唄家元を名乗ることもなく、昭和49年6月、肺がんで69年の生涯を閉じた。 

第四話 東下りーその一

 <現代語訳>

 むかし、ある男がいた。その男、自分を役に立たないものと思い込んで、もう都には居るまい、東国の方に住むべき国を探しに、といって出掛けた。前からの友達一人二人が一緒だった。道を知っている人も無く、戸惑いながら旅をした。


 三河の国の八橋(やつはし)という所に着いた。そこを八橋という訳は、川の流れが蜘の手のように八方に分かれていて橋を八つ渡してあるからである。その澤の畔に坐って乾飯(かれいい)をたべた。その澤に杜若(かきつばた)が大変美しく咲いていた。それを見てある人が、「かきつばたという五文字を各句の頭に置いて旅の気持ちを歌にしてみたら」と言ったので男は次の歌を詠んだ。


 「からころも 着つつ馴れにし 妻し有れば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」(長年慣れ親しんできた妻は都にいるので、はるばるやって来たこの旅が身にしみて感じられる)。それを聞いた一同は、乾飯の上に涙を落とし、そのため乾飯がふやけてしまった。


 さらに旅を続けて駿河の国に着いた。宇津の山に差し掛かると、これから一行が分け入る道は、大変暗くて細い上に蔦や楓が茂って如何にも心細い。これから辛い目に遭う事だと思っていると一人の修行僧に出会った。「こんな道にどうしてお出でになったのですか」と云うのを見たら知っている人だった。


 そこでその人へ「都の誰それの御許へ」という手紙を届けてくれるよう頼んだ。その手紙には次の歌が書いてあった。「駿河なる 宇津の山辺のうつつにも 夢にも

人に 逢わぬなりけり」(私は今、駿河の国の宇津の山の辺りに来ているが、現実には勿論、夢でさえあなたに逢えない。)


<注釈>

 【三河の八橋】

 愛知県知立市に八橋町の地名が残っており、その市の花は杜若である。

 【乾飯】

 蒸した米を天日で干した携帯食。そのまま噛んで食べるか湯でふやかして食べる。

 【宇津の山】

 駿河の国の丸子宿と岡部宿の間の峠で、昔は東海道の難所として知られたが、今は、国道一号線宇津谷トンネルが貫通している。

 

 <鑑賞>

 かきつばたの歌は、業平の歌としてあまりにも有名であるが。乾飯が涙でふやあけたなど、作り話として面白い。宇津の山辺の歌は、私があなたの夢さえ見ないのは、あなたが私を思っていないからだと女を疑っている気持ちを匂わせている。

夜啼鳥

 5月26日の小唄天声会の例会で、初代・松峰照さんの曲「夜啼鳥」を唄いたいと糸方の蓼派の師匠に電話したら、そんな唄、弾いたことないから、楽譜とテープを送ってくれたら勉強しますという返事だった。


 この小唄は、川口松太郎の新派劇「鶴八鶴次郎」の大詰、腰掛茶屋の場で、鶴次郎が、末を誓った鶴八との恋を断腸の思いで諦め、泣きながら酒を煽ふる場面を唄

ったもの。「鶴八鶴次郎」については、06.12.17のブログに書いたから繰返さないが、今から二年前、還暦そこそこの命を自ら絶った畏友・池上秀樹がメールで、私のブログを読んで泣きましたと言ってきた曰く付きのブログである。


 「鶴八鶴次郎」を唄った小唄で最もよく知られているのは、川上渓介作詞、春日とよ作曲の「心して」(昭和15年開曲)である。これも「夜啼鳥」と同じ場面を唄った曲であるが、小唄評論家・木村菊太郎氏は、その著「昭和小唄ーその二」でこの唄を新派小唄の最高傑作と褒め上げ、4頁を費やして解説しているのに比べ、「夜啼鳥」には、「昭和59年作、大塚謙一作詞、初代松峰照作曲」と唯一行だけ記してあるに過ぎない。


 大塚謙一の作詞は、「末かけし恋も人気も棄てて来た 場末の寒き居酒屋で 酒に心も蘭蝶の 火影を流す新内に (セリフ)<俺ァ 新内は大嫌ェだ> 耳を塞いで泣き濡れる 淋しい冬の夜啼鳥」で、川上渓介作詞の「心して」に比べると、言葉の美しさは及ばないが、自ら恋を棄てた男の胸を抉るような心情が滲み出ており、それに松峰の、一部科白が入るが、徹頭徹尾新内節を聴かせる曲作りは、大矢謙一の作詞にピッタリである。


 初代松峰照は、本名神津泰子、大正7年、東京都北区の裕福な家庭で生れ、6歳の6月から清元を習い始め、12歳で名取となった。小唄は1957年、39歳の時、千紫、竹枝、佐々舟、井筒、葵、などが田村派を脱会して新生会を催した時、竹枝せんの小唄に感動して入門、僅か一年足らずで竹枝せん照の名を許され師範となった。、昭和46年、竹枝せん照は竹枝家元の許しを得て竹枝派を退き、松峰照を名のって松峰派を興した。


 初代松峰照は、今年91歳。つい最近亡くなられた。凡そ半世紀にも及ぶ小唄の作曲活動を続けてこられ、数々の小唄人好みの名曲を生んでこられたが、未だに理解できないことが一つある。それは、他派の古い家元さん達にとって、最近はそれほどでもないが、かつて表向きの舞台で初代松峰照さんの小唄を唄うことがタブーであったということである。上村幸以氏主催で、毎年、「江戸の名残を楽しむ夕べ」と云う小唄の会が催されているが、25年間、430曲の演奏記録を見ても、初代松峰照の作曲は一曲も無い。


 それでいて弟子達の温習会や発表会などでは、初代松峰照の曲の出ない会は無い。人気曲は、「雨」「軒つばめ」「酔い覚めに」「秋蔦」「手紙」「様は山谷」「未練酒」「立山紬」「雪明り」「稲瀬川」「夜啼鳥」「対浴衣」「岡惚れ」「紅かづら」「梅月夜」「屋台酒」などなど、切りが無い。弟子達は、イイものはイイ、好きなものは好き、と割り切っているのに、古い家元さん達には、タブーはタブーで、乗り越える事が出来なかったようである。でも、もう、古い家元さん達も、松峰千照さんもみんなあの世へ行かれたことだし、これから松峰節を大いに唄ってやろうじゃないかと、八海老人が考えた次第。


 

第三話 芥川 (原典の六段目)

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        (高子を背負って逃げる業平)


 <現代語訳>

 むかし、ある男がいた。幾年もの間、口説き続けて、ものにならないだろうと思っていた女が、漸くその気になってきたようなので、ある夜、その女を盗み出して、たいそう暗い道を逃げてきた。芥川という川のほとりに差し掛かったところ、草の上に露の玉がきらきら光っているのを見て、女が、あれは何でしょうと訊ねた。行く先も遠く、夜も更けてしまった上に、雷さえ鳴り出し、雨もひどく降ってきたので、男はあせっていて、女の問いに答える余裕が無かった。


 そして男は、雷雨を避けるため、鬼の棲家とも知らないで、荒れ蔵の奥に女を押し込み、弓矢を持って戸口を守っていた。男は、早く雨が止んで夜が明ければいいなと思いながらいたところ、蔵の中では鬼が現れて、女を一口で食べてしまった。「キャー」という女の悲鳴は雷鳴に消されて、男の耳には届かなかった。


 朝になって、女が鬼に食べられてしまっていなくなったことに始めて気が付いた男は、地団駄踏んで悔しがって泣いたが後の祭りだっった。その男の詠んだ歌ー「白玉か 何ぞと人の問いし時 露と答えて消なましものを」(女が草の上に真珠のように光るものを見て、あれは鬼か蛇の目ではないかと訝るのを見て、いいえあれは草の露ですと答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのだ)


 この話の原典には、次のようなコメントが付けられていた。これは、二条の后(高子)が従姉の女御(太政大臣藤原良房の娘で文徳天皇の后・明子)のお側にお仕えするような形でいられたのを、容姿が大層すぐれておいでになったので、男(業平)が盗んで、背に背負って逃げ出したのを、兄の基経(堀河大臣)と国経大納言が、内裏に参内する途中、ひどく泣いている女がいるので誰だろうと見ると妹の高子だったので吃驚してすぐに屋敷へ連れ戻した。それを鬼に食べられた話にたとえた。


<注釈>

 【芥川】 大阪府高槻市にこの地名及び川の名が残っているが、この話の「芥川」かどうかは不明。

 【基経】 藤原長良の三男であるが良房養子となり、関白となった。

 【国経】 藤原長良の長男


<鑑賞>

 この話は、明らかに後から加えられたもので、高子が藤原氏の策謀で宮中の女御に召されるのを反藤原勢力が妨害するため、業平に高子と密通させようとして失敗した話なのである。高子はやがて清和天皇の妃となり陽税天皇成天皇を生む。一方、業平はこの情事のあと都にいられられなくなり、有名な「東下り」の話に繫がって行く。

 

西の対(にしのたい)

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         (藤原高子のイメージ)


 <現代語訳>

 むかし、東の京の五条に、皇太后の宮がおわしましたが、その御殿の西の対屋(たいのや)に一人の女性が住んでいた。その女性に近づいて行った男が、始めは本気でなかったのに、段々愛が深くなって、その女を度々訪れていたところ、正月の十日頃、女が急に身を隠してしまった。


 居所は聞いたけれども、普通の人が通って行けるような所でなかったので、一層辛い思いでいた。おとこは、次の年の正月、梅の花盛りの頃、去年のことを恋しく思って、それまで女が住んでいた所へ行き、立って見たり座って見たりして見回してみたが、去年の面影は、もう何処にも無かった。男は只管泣いて、戸障子も無い板敷きに、月の出まで臥していて、「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして」と詠んで、夜がほのぼの明ける頃、泣きながら帰って行った。


 <注釈>

 【東の京の五条】 東の京とは、平安京の南北を貫く朱雀大路の東側をいう。現在の京都市左京区に当り、五条は平安京の南北の中心よりやや南に下がった地域をいう。

 【皇太后の宮】 54代仁明天皇の皇后であった藤原冬嗣の娘・順子(55代文徳天皇の生母)を指す。

 【対屋】 母屋と回廊で繫がる「離れ」で、妻の部屋、娘の部屋、妻でも娘でもない女の部屋などがあった。

 【西の対屋の女】 藤原順子の兄・藤原長良(ながよし)の娘・高子(たかいこ)で、56代清和天皇の女御になることが決まっていた。

 【始めは本気でなかった】 高子の入内を妨害するため、藤原氏の策謀に反対する王族達が業平に嗾けて、高子と密通させようとした。業平は美男で和歌の才があり女たらしで、その役目にうってつけだった。

 【月やあらぬ・・・・】 この唄は、古今集に業平の歌とはっきり出ているので、第二話の主人公が業平であることは明白。


 <鑑賞>

 ミイラとりがミイラのなった形で、業平は高子にのめり込んでしまった。これが第三話の高子との駆落の話に発展する。

空や久しく

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 四月十五日の江戸小唄友の会で「空や久しく」を唄うことになった。この唄は古い唄で、作詞は不詳、作曲は、明治の中頃、一中節の大夫・都以中とされている。小唄の歴史を紐解いて見ると、江戸文化の一端として、三味線の普及と共に、江戸庶民の間に広がっていった歌謡は、富本節、清元節、一中節、宮園節、新内節、歌沢節、常磐津節、河東節など、それに上方から流れてきた浄瑠璃、長唄、端唄など、更に地方から伝わってきた民謡など、極めて多種多様であった。


 その中で、明治の中頃、清元お葉が天才的才能で、今までにない新しい小曲を創りだした。お葉の祖父・初代清元延寿大夫は、清元節の創始者で、父は二世延寿大夫、母は長唄の名手、そういう中で育てられたお葉は、幼い頃から天賦の才に恵まれ、男に生まれて欲しかったと父が悔しがったという。お葉が十六歳のとき、父が亡くなり、その遺品の中から出てきた松平不昧公の歌に、今までの歌謡とは一味違った節をつけた。それが「散るは浮き」という唄で、江戸小唄の元祖となった。お葉の新しい唄は粋な味がするというので瞬く間に広がって行った。


 お葉に刺激されてか、都以中が「空や久しく」という小唄曲を作ったのも、多分この頃であろう。都以中の本職は一中節であるが、宮園節、清元節にも長けていたので、「空や久しく」には、宮園、一中、清元の夫々の節が取り込まれているのが特徴である。即ち、「空や久しく雲らるる」は宮園、次の「降らるる雨も晴れやらぬ」が一中、次の「濡れて色増す青柳の」が清元、最後は「糸の乱れが気にかかる」で終わっている。


 この唄は、梅雨空にかこつけて、情婦を持った男の心の機微を唄ったもので、青柳は女を意味し、糸は勿論三味線を意味する。この唄を意訳すると、「ふとした縁で結ばれた女であるが、あの女、どうもこの頃、色気が増してきたようだ。それに三味線の音締が少し乱れてきたようだ。他に好きな男でも出来たんじゃないかと思うと、この梅雨空のように心が晴れない。」となる。

第一話『初冠(ういこうぶり』

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           (在原業平)

<現代語訳>

 むかし、ある男がいて、元服をしたばかりで、奈良の春日の里(そこに領地があった)へ、鷹狩りに行った。その里には、たいそう若く美しい姉妹が住んでいた。男はその姉妹を垣間見てしまった。こんな鄙びた里には不似合いな娘達だったので、男の心が思い乱れた。男は、着ていた狩衣の裾を切り取って、和歌を書いて娘達に贈った。その男は、しのぶ摺りの狩衣を着ていたのである。


 「春日野の 若紫の摺り衣 しのぶの乱れ 限り知られず」と、大人びた言い回しで詠まれた歌だった。その男は、その場の次第に相応しい趣向と思ったのであろう。と云うのは、その男が詠んだ歌は、「陸奥の しのぶ文字摺り誰故に 乱れ初めにし 我ならなくに」(原典は百人一首、古今集。河原左大臣作)という古い歌の心になぞらえたもので、昔の男は、このように急に恋の炎を燃え上がらせたものだ。


<注釈>

 【元服】大人になったと云う儀式で、十二歳のころに行なう。貴族の場合は、初めて女との添い寝が許される。相手は、結婚の対象であったり、男にセックスの手ほどきをする女性であったりしたようである。

 【春日の里】現在の春日大社や奈良公園の辺り。

 【狩衣】男性の野外用服装。今で言うならスポーツウエア。

 【しのぶ文字摺り】福島県南部の信夫郡(今は福島市の一部)にある信夫観音の境内に文字摺石という河原左大臣ゆかりの石が残っている。松尾芭蕉も奥羽行脚の途中ここに立ち寄り、「早苗取る 手許や昔 しのぶ摺り」の一句を「奥の細道」に残している。昔は、草などを石に擦り付けて汁を出し布を染めたようである。


 <鑑賞>

 第一話の「ある男」が、「業平」かどうかは定かではない(第二話ではっきりする)が、女性と和歌には才能を発揮した業平を暗示するような話である。



 

 

はじめに

         八海老人日記

         (伊勢物語写本)

 

 昨年は、源氏物語千年紀ということで、世界的に優れた日本の古典文学がもてはやされた。ところが、源氏物語に先駆けて成立し、源氏物語に勝るとも劣らない作品があると哲学者の梅原猛は言う。それが伊勢物語である。そこで私のブログ・八海老人日記は、昨年まで、古典中の古典である万葉の世界を彷徨ってきたが、一段落したので、今年から新たに伊勢物語の世界に首を突っ込んでみたいと思う。


 テキストは、中村真一郎の「伊勢物語」(2007年、世界文化社)。中村真一郎(1918~1997)は、東京生まれ、東大仏文科卒で、作家、文芸評論家として知られ、「四季」四部作(昭和50~59年)で日本文学大賞を受賞。中村真一郎の「伊勢物語」は、全百二十五段の内、五十二段を抜粋して現代文で分かりやすく、読みやすく,絵や写真を交えて編集したもので、キャッチフレーズは、「業平の心の遍歴を描いた歌物語」となっている。


 娘のために源氏物語を書いたと言われる宮廷女性・紫式部も、恐らく伊勢物語を愛読した一人だったと思われ、伊勢物語からの影響も受けたであろうと推定されるが、源氏物語が光源氏を主人公とした長編小説とすれば、伊勢物語は、短編小説的な構成となっている。、古典文学作品の特徴は、読者が写本によって広がって行く内に、成長という現象が見られることである。紫式部は源氏物語のほんの一部を書いただけで、大半は写本が繰り返される内に加筆されたものであった。伊勢物語も同様で、最初に書いた人は誰か分からないが、後からどんどん歌物語が付け加えられて行き、終いに業平を巡るエピソード集のような読み物となったようである。


 竹取物語や今昔物語など古代の古典は、何よりも作家の個性を尊重する近代の文学作品と違って、愛好者達の共有財産であり、作品が年と共に成長するという現象を伴うのが普通であった。これが初期段階に続く第二段階であり、やがて成長が止まり、作品としての内容が固定化する。これが第三段階である。伊勢物語も、各段階の写本が、百種類以上現存している。伊勢物語が作品として成立したのは九世紀の中頃と推定され、十世紀に掛けて成長し、最も普及したのは、江戸時代になって絵付木版本が出版されるようになってからである。


 私のブログは、これから「日本古代史」、「小唄人生」と共に、「伊勢物語の世界」で、中村真一郎のテキストにより、源氏物語に劣らない五十二話の歌物語を紹介してゆく積りである。乞うご期待。


 

又の御見(ごげん)

         八海老人日記   

         (浮世絵・高尾太夫)


 毎週火曜日の神田・神保町の小唄稽古の帰りに、古本屋を覗いたら湯朝竹山人著・「小唄漫考」(大正15年)という本が目に入った。興味を惹かれたので店の主人に珍しい本ですねと話しかけたところ、滅多に出ない本ですよという。私は、小唄関係の文献は、出来るだけ集めることにしているので、この本を五千円で買い求め、家へ帰って早速紐解いた。著者の湯朝竹山人のことはあまりよく知らないからネット検索に掛けて見た。すると思いがけなく邦楽の友・守谷社長が発行するメルマガ94号(2003年)に出遭った。


 メルマガ94号には、メルマガ雀の会という読者の会員の投稿するページがあって、その中に湯朝竹山人の「小唄漫考」の中に出てくる竹山人の知人から寄せられた都々逸、「思い出すようじゃ惚れよが薄い 思い出さずに忘れずに」に因んで、江戸の吉原遊郭、三浦屋お抱えの遊女・二世高尾太夫が仙台藩主・伊達綱宗公に宛てた手紙の話が出てくるのである。


 伊達綱宗公(伊達政宗の孫)は、十九歳の若さで藩主となり、幕府から命ぜられた江戸城修復事業の先頭に立ったが、御休息と称して毎日のように吉原の高尾太夫の許に通い、高尾太夫もいつか綱宗公を深く愛するようになった。あるとき高尾太夫が綱宗公に手紙を書いた。これが名文で、「ゆうべは浪の上のお帰らせいかが候、館の御首尾は恙無くおわしまし候や、御見のまも忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ」。いつも忘れないから思い出しませんという、教養の高い太夫ならではの愛の表現が日本人の心を打つというのである。


 「又の御見」という小唄は、かつて高尾太夫が、愛しい綱宗公との後朝の別れを惜しんで口ずさんだという有名な俳句「君は今 駒形(にごらずコマカタと読む)あたり時鳥」を取り込んだ明治中期の作で、小唄歌詞は、「又の御見を楽しみに 帰したあとでふうわりと鶏が鳴く 君は今駒形辺りなんとなく 昔も今も変らじと 人の情けと恋の道」。吉原遊女の心根を唄った小唄である。綱宗公の船も、山谷堀から大川へ出て、駒形河岸辺りを通ったものであろう。


 明治中期、品川弥二郎の作詞と伝えられる似た様な小唄がある。 「主を帰したその後は 枕二つに身は一つ、君は今駒形辺り時鳥 血を吐くよりもなお辛い」。           「」

 


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小林恵子の壬申の乱

    

        八海老人日記         

        (壬申の乱関連図)


 古代日本を揺るがせた内乱、大海人皇子による大クーデター事件、所謂壬申の乱については、08.08.09のブログでかいたが、最近小林恵子の著書「壬申の乱」を読んで、通説とは全く異なる所論に改めて目を開かされた思いがした。


 岡山大学で東洋古代史を専攻された小林恵子女史は、藤原不比等らが日本書紀を編纂するに当たり、都合の悪い記録を全て焼き捨てさせて改竄した日本古代史を改めて掘り起こし、中国や朝鮮などに残された古代記録に基づく新たな考証を加え、偽装日本古代史の仮面を剥ぎ取るという大変な作業に取り組んでおられる。


 前回のブログで、朝鮮半島白村江において、唐・新羅の連合軍と戦って敗北した倭国(九州政権)がどういう結末を辿ったかについて述べた。通説では、近江政権の天智天皇は、始め、弟とされていた大海人皇子に皇位を譲る予定であったが、後になってわが子・大友皇子に皇位を継がせたくなった。太政大臣に任命された大友皇子は、近江朝廷内で次第に力をつけ、天智天皇が671年12月に没するや、あからさまに大海人皇子を排除しようとした。


 吉野に引篭もっていた大海人皇子は、情勢を察知し、先手を取って動き出し、伊勢へ急行して東国の兵を集め、美濃の国不破に本営を置き、南大和・箸陵(はしはか)の戦で大友軍を撃破した。更に決戦場となった瀬田で、両軍最後の決戦が行なわれ、大友はこの戦に敗れ自害した。


 瀬田の戦で、大海人軍を指揮したのが、当時16歳の大海人の長子・高市の皇子であったと言う。実力で天智の後、皇位を継いだ大海人の権力は強大なものとなり、所謂天武王朝と言われる政権を築いた。天武王朝から、天皇の神格化、中央集権を志向する律令化がこの頃から顕著になった。


 以上のような通説に対し、小林恵子の説を要約すると次のようになる。

①中大兄皇子(実は百済王家の一族。後の天智天皇)と大海人皇子(新羅の武       将。後の天武天皇)は赤の他人同士で、しかも大海人は中大兄皇子よりも年上。


②天智天皇が没した後、皇位継承権が有ったのは、第一が長子の高市の皇子で、第二が大友の皇子。大海人にはその資格が無かった。


③大海人が、近江朝廷に反感を持つ東国武士の援軍で勝利したと言うのは嘘で、実は大海人を助けたのは、新羅からの援軍であった。


このあと、小林恵子の説は、どのように展開して行くのだろうか。続きがお楽しみ。