島の娘
来る6月7日に予定されている華兆家元さんの小唄会にゲストとして招かれて、家元さんご作曲の「島の娘」を唄うべく、家元さんから送られてきたテープと目下格闘取り組み中。「島の娘」と言えば、かつて「ハアー 島で育てば・・・」の歌謡曲で一世を風靡した小唄勝太郎の美声を思い出さずにはいられない。
小唄勝太郎(本名・佐藤カツ。1949年に結婚して真野カツ。)は、1904年(明治37年、日露戦争の始まった年)、新潟県沼垂(ぬったり、後新潟市に編入)で生まれた。幼い頃、沼垂の老舗料亭「鶴善」の養女となり、生来の芸事好きで、三味線、日本舞踊、清元などに一心不乱に打ち込んだ。大正末期、22歳の頃、好きだった清元の師匠になりたくて上京したが、世間はそんなに甘くは無かった。葭町に籍を置き、勝太郎と名乗って芸者に出た。
折しも昭和初期、レコード産業の黎明期に当り、同じ葭町の芸者で、藤本秀夫(後の民謡の大家・藤本秀丈)と組んで端歌・俗曲を唄っていた藤本二三吉が、「浪花小唄」や「祇園小唄」のレコードがヒットするや、美声で評判だった勝太郎もオデオンレコードからスカウトされ、レコード歌手としての第一歩を踏み出した。1931年(昭和6年)には、日本ヴィクターと正式に契約して専属歌手となり、次々とレコードを出した。特に昭和8年に発売された「島の娘」(長田幹彦作詞、佐々木俊一作曲)は大ヒットし、発売3ヶ月で35万枚を売り上げ、勝太郎は一躍スターダムに伸し上がった。
長田幹彦作詞、佐々木俊一作曲の「島の娘」がどんな唄だったかと言えば、「島育ちで十六歳の初な娘が、漁師の男と始めて恋をし、人目を忍んで一夜情を交わ
すが、男は船乗り、時化に遭って海の底に沈んでしまった。千鳥よ泣いてくれるな、私は捨て小舟。」という唄で、佐々木俊一の作曲が勝太郎の美声を活かし、ハアーの出だしは、勝太郎ならではのヴァイブレーションのない邦楽特有の澄んだ高い声で始まる。日本人ならこの声に魅せられない者は居なかったという。
所が残念なことに、昭和12年、満州事変が起きて戦時色が次第に強まるにつれ、当局より「島の娘」は歌詞に問題ありとされ、勝太郎が戦地へ慰問の出かけこの唄を唄う時は、歌詞の一部を改作させられ、最後は唄うことも禁止されてしまった。
市川摂さんの作詞された「島の娘」の歌詞は、「粋なつぶしや方笑窪 ほのめく唄に咲いた花 夢を残していった人 その名惜しめば降る雪に 主と一夜の仇情 今も聞こえてくるような、島の娘に泣く千鳥」で、市川摂さんのことはよく存じ上げないが、八海老人の勝手な想像で申せば、この唄はむしろ勝太郎の一生を投影しているように思われる。
小唄勝太郎は、レコード歌手として日本ヴィクターから二百枚近いレコードを出し、中でも「東京音頭」は、今も日本全国の盆踊りには欠かせない唄となっている。
昭和46年には、国民的歌手として、歌謡界では初めてという紫綬褒章を受けたが、勝太郎の本当の夢は、清元や小唄をやりたかったのではないか。木村菊太郎氏の名著・昭和小唄その一の413頁から415頁に小唄勝太郎の作った「新小唄」についての記事を載せており、晩年は江戸小唄に親しんだらしいが、小唄家元を名乗ることもなく、昭和49年6月、肺がんで69年の生涯を閉じた。