第一話『初冠(ういこうぶり』
(在原業平)
<現代語訳>
むかし、ある男がいて、元服をしたばかりで、奈良の春日の里(そこに領地があった)へ、鷹狩りに行った。その里には、たいそう若く美しい姉妹が住んでいた。男はその姉妹を垣間見てしまった。こんな鄙びた里には不似合いな娘達だったので、男の心が思い乱れた。男は、着ていた狩衣の裾を切り取って、和歌を書いて娘達に贈った。その男は、しのぶ摺りの狩衣を着ていたのである。
「春日野の 若紫の摺り衣 しのぶの乱れ 限り知られず」と、大人びた言い回しで詠まれた歌だった。その男は、その場の次第に相応しい趣向と思ったのであろう。と云うのは、その男が詠んだ歌は、「陸奥の しのぶ文字摺り誰故に 乱れ初めにし 我ならなくに」(原典は百人一首、古今集。河原左大臣作)という古い歌の心になぞらえたもので、昔の男は、このように急に恋の炎を燃え上がらせたものだ。
<注釈>
【元服】大人になったと云う儀式で、十二歳のころに行なう。貴族の場合は、初めて女との添い寝が許される。相手は、結婚の対象であったり、男にセックスの手ほどきをする女性であったりしたようである。
【春日の里】現在の春日大社や奈良公園の辺り。
【狩衣】男性の野外用服装。今で言うならスポーツウエア。
【しのぶ文字摺り】福島県南部の信夫郡(今は福島市の一部)にある信夫観音の境内に文字摺石という河原左大臣ゆかりの石が残っている。松尾芭蕉も奥羽行脚の途中ここに立ち寄り、「早苗取る 手許や昔 しのぶ摺り」の一句を「奥の細道」に残している。昔は、草などを石に擦り付けて汁を出し布を染めたようである。
<鑑賞>
第一話の「ある男」が、「業平」かどうかは定かではない(第二話ではっきりする)が、女性と和歌には才能を発揮した業平を暗示するような話である。