又の御見(ごげん)
(浮世絵・高尾太夫)
毎週火曜日の神田・神保町の小唄稽古の帰りに、古本屋を覗いたら湯朝竹山人著・「小唄漫考」(大正15年)という本が目に入った。興味を惹かれたので店の主人に珍しい本ですねと話しかけたところ、滅多に出ない本ですよという。私は、小唄関係の文献は、出来るだけ集めることにしているので、この本を五千円で買い求め、家へ帰って早速紐解いた。著者の湯朝竹山人のことはあまりよく知らないからネット検索に掛けて見た。すると思いがけなく邦楽の友・守谷社長が発行するメルマガ94号(2003年)に出遭った。
メルマガ94号には、メルマガ雀の会という読者の会員の投稿するページがあって、その中に湯朝竹山人の「小唄漫考」の中に出てくる竹山人の知人から寄せられた都々逸、「思い出すようじゃ惚れよが薄い 思い出さずに忘れずに」に因んで、江戸の吉原遊郭、三浦屋お抱えの遊女・二世高尾太夫が仙台藩主・伊達綱宗公に宛てた手紙の話が出てくるのである。
伊達綱宗公(伊達政宗の孫)は、十九歳の若さで藩主となり、幕府から命ぜられた江戸城修復事業の先頭に立ったが、御休息と称して毎日のように吉原の高尾太夫の許に通い、高尾太夫もいつか綱宗公を深く愛するようになった。あるとき高尾太夫が綱宗公に手紙を書いた。これが名文で、「ゆうべは浪の上のお帰らせいかが候、館の御首尾は恙無くおわしまし候や、御見のまも忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ」。いつも忘れないから思い出しませんという、教養の高い太夫ならではの愛の表現が日本人の心を打つというのである。
「又の御見」という小唄は、かつて高尾太夫が、愛しい綱宗公との後朝の別れを惜しんで口ずさんだという有名な俳句「君は今 駒形(にごらずコマカタと読む)あたり時鳥」を取り込んだ明治中期の作で、小唄歌詞は、「又の御見を楽しみに 帰したあとでふうわりと鶏が鳴く 君は今駒形辺りなんとなく 昔も今も変らじと 人の情けと恋の道」。吉原遊女の心根を唄った小唄である。綱宗公の船も、山谷堀から大川へ出て、駒形河岸辺りを通ったものであろう。
明治中期、品川弥二郎の作詞と伝えられる似た様な小唄がある。 「主を帰したその後は 枕二つに身は一つ、君は今駒形辺り時鳥 血を吐くよりもなお辛い」。 「」
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