夜啼鳥
5月26日の小唄天声会の例会で、初代・松峰照さんの曲「夜啼鳥」を唄いたいと糸方の蓼派の師匠に電話したら、そんな唄、弾いたことないから、楽譜とテープを送ってくれたら勉強しますという返事だった。
この小唄は、川口松太郎の新派劇「鶴八鶴次郎」の大詰、腰掛茶屋の場で、鶴次郎が、末を誓った鶴八との恋を断腸の思いで諦め、泣きながら酒を煽ふる場面を唄
ったもの。「鶴八鶴次郎」については、06.12.17のブログに書いたから繰返さないが、今から二年前、還暦そこそこの命を自ら絶った畏友・池上秀樹がメールで、私のブログを読んで泣きましたと言ってきた曰く付きのブログである。
「鶴八鶴次郎」を唄った小唄で最もよく知られているのは、川上渓介作詞、春日とよ作曲の「心して」(昭和15年開曲)である。これも「夜啼鳥」と同じ場面を唄った曲であるが、小唄評論家・木村菊太郎氏は、その著「昭和小唄ーその二」でこの唄を新派小唄の最高傑作と褒め上げ、4頁を費やして解説しているのに比べ、「夜啼鳥」には、「昭和59年作、大塚謙一作詞、初代松峰照作曲」と唯一行だけ記してあるに過ぎない。
大塚謙一の作詞は、「末かけし恋も人気も棄てて来た 場末の寒き居酒屋で 酒に心も蘭蝶の 火影を流す新内に (セリフ)<俺ァ 新内は大嫌ェだ> 耳を塞いで泣き濡れる 淋しい冬の夜啼鳥」で、川上渓介作詞の「心して」に比べると、言葉の美しさは及ばないが、自ら恋を棄てた男の胸を抉るような心情が滲み出ており、それに松峰の、一部科白が入るが、徹頭徹尾新内節を聴かせる曲作りは、大矢謙一の作詞にピッタリである。
初代松峰照は、本名神津泰子、大正7年、東京都北区の裕福な家庭で生れ、6歳の6月から清元を習い始め、12歳で名取となった。小唄は1957年、39歳の時、千紫、竹枝、佐々舟、井筒、葵、などが田村派を脱会して新生会を催した時、竹枝せんの小唄に感動して入門、僅か一年足らずで竹枝せん照の名を許され師範となった。、昭和46年、竹枝せん照は竹枝家元の許しを得て竹枝派を退き、松峰照を名のって松峰派を興した。
初代松峰照は、今年91歳。つい最近亡くなられた。凡そ半世紀にも及ぶ小唄の作曲活動を続けてこられ、数々の小唄人好みの名曲を生んでこられたが、未だに理解できないことが一つある。それは、他派の古い家元さん達にとって、最近はそれほどでもないが、かつて表向きの舞台で初代松峰照さんの小唄を唄うことがタブーであったということである。上村幸以氏主催で、毎年、「江戸の名残を楽しむ夕べ」と云う小唄の会が催されているが、25年間、430曲の演奏記録を見ても、初代松峰照の作曲は一曲も無い。
それでいて弟子達の温習会や発表会などでは、初代松峰照の曲の出ない会は無い。人気曲は、「雨」「軒つばめ」「酔い覚めに」「秋蔦」「手紙」「様は山谷」「未練酒」「立山紬」「雪明り」「稲瀬川」「夜啼鳥」「対浴衣」「岡惚れ」「紅かづら」「梅月夜」「屋台酒」などなど、切りが無い。弟子達は、イイものはイイ、好きなものは好き、と割り切っているのに、古い家元さん達には、タブーはタブーで、乗り越える事が出来なかったようである。でも、もう、古い家元さん達も、松峰千照さんもみんなあの世へ行かれたことだし、これから松峰節を大いに唄ってやろうじゃないかと、八海老人が考えた次第。