第十五話「渚の院(なぎさのいん)」(原典第八十二段)
<現代語訳>
むかし、惟喬親王(これたかのみこ)と申す親王がおいでになった。 山崎からもう少し先の水無瀬(みなせ)という所に離宮があり、親王は毎年、桜の季節にその御殿にお出かけになった。その際、右馬頭の役であった人物をいつも連れて行かれた。時代も経ること久しくなったので、その人物の名前も忘れてしまったが、その一行は、狩の方はあまり熱心ではなく、酒ばかり飲んで和歌を詠むことに熱中していました。その日もまた、お狩場になる交野(かたの)の渚の院の辺りの桜がことのほか見事だったので、その樹の下に馬から降りて坐り、桜の枝を折って翳しに挿し、上中下の身分の者が其々歌を詠んだ。
右馬頭が詠んだ歌、「世の中に絶えて桜の無かりせば 春の心はのどけからまし」(世の中に桜というものがなかったならば、春の人の心も のどかであったであろうに。) するともう一人の者がそれを受けて、「散ればこそ いとど桜は目出度けれ 浮世の何か久しかるべき」(散るからこそ桜は風情があるのだ 一体この世に久しく滅びないものなどあるだろうか。)、と詠んだ。
それから一行が、その桜の樹の下を引き払って水無瀬の御殿へ帰って行く途中、日暮れになってきた。そこへ丁度、供の者が下人に酒を持たせてお狩場の中から出てきたので、この酒を皆で飲もうということになり、いい場所を探しながら行く内に、天の川という所に来た。親王に右馬頭が酒を差し上げると、親王は、「交野を狩りして天の川のほとりに来たということを題にして歌を詠んで杯を差せ」と仰った。そこで右馬頭が歌を詠んで奉った。「狩り暮らし 七夕津女(たなばたつめ)に宿借らむ 天の河原に我は来にけり」(一日中、交野に狩をして日も暮れた。今夜の宿は天の川の七夕姫に借りることにしよう。)
親王は、この歌を繰り返し口ずさんでおられたが、返歌をすることがお出来にならなかった。そこで紀有常が代わりに作って差し上げた。「一年に一度来ます君待てば 宿貸す人もあらじとぞ思う」(七夕津女は、一年に一度、彦星が来るのを待っているのだから、私達に宿は貸してくれないと思う。) その歌を聴いて親王は御殿へお帰りになられた。
一行は、夜が更けるまで酒を酌み交わし、語らい合って過ごした。親王も酒に酔われて寝所に入られたであろう。十一日の月も隠れようとするので、右馬頭が詠んだ。「飽かなくに まだきも月の隠くるるか 山の端逃げていずれもあらなむ」(まだ眺め飽きることもしないのに、もう月が隠れるのか あの山の端が退いて月を入れないようにして欲しいものだ。) 親王に代わって紀有常が返歌した。「おしなべて 峰も平らになりななむ 山の端なくば 月も入らじを」(どの峰も、一様に平らになって欲しいものだ。山の端が無ければ、月も入るまいから。)
あの日から
12月16日(水)、南青山会館で催される江戸小唄友の会の第152回三桜会例会で、小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の「あの日から」を唄うことになった。作詞者の小野金次郎(明治25年~昭和51年)は、横浜の生まれで、鎌倉師範中退、劇作家協会会員、大正12年読売新聞社に入社して演芸記者、昭和10年日活多摩川入所、同時に日本ビクター文芸部嘱託として作詞の道に入る。
昭和22年、敗戦後初めて歌舞伎「忠臣蔵」の上演がGHQにより許可され、歌舞伎界は沸き立った。小唄界でも、この潮流に乗り、歌舞伎小唄、歌舞伎舞踊小唄が次々と作られた。小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の「定九郎(五段目)」、「お駆(七段目)」などが発表されたのはこの頃である。
中山小十郎(大正4年~平成5年)も横浜生まれ。本名石川俊夫。長唄を初代柏伊三郎に学び、伊佐之助の名を許された。戦後いち早く、義姉・市丸(伊佐之助の夫人・静子は市丸の妹)の勧められ、歌舞伎小唄、歌舞伎舞踊小唄の手掛けた。昭和30年代は、小十郎の絶頂期で、「川水」、「おぼこ」、「あの日から」、「獅子頭」、「宵宮」、「青いガス灯」、「四万六千日」など、現代小唄の名曲を次々と世に出した。現在の小唄界で、小十郎の唄の出ない小唄会は無いといっても良い。小十郎小唄の特色は、華麗な三味の手に乗って、映えて唄えるところにある。
小野金次郎著の「自註新作小唄帳(昭和40年)」によれば、昭和35年発表の「あの日から」という小唄は、お座敷通いの下谷の若い芸妓を題材にした舞踊小唄で、花柳宗岳の振り付けで披露された。歌詞は、「あの日から 噂も聞かず 丸三月 出会い頭を忍ばずの 蓮のすがれた片かげり あえてどうなるものでなし 私もこんなに痩せました 義理の枷」。
芸妓が、客の一人を好きになったが、あれからもう丸三月も来てくれないし噂も聞こえてこない。或る日、不忍池の畔の枯れた蓮が日に翳っているを見ながら歩いていると、ばったりあの人に出会った。「どうしているの」と優しく言ってくれたが、会えたからといってどうなるものでもなし。「私もこんなに痩せました」と胸のうちをつぶやくだけで、ほんとに芸妓家業は辛い。かつて全盛時代のデップリ太った故蓼胡満喜家元が、「私もこんなに痩せました」と唄ったら、お客がドッっと笑ったのを思い出す。
第十四話「狩の使」(原典第六十九段)
<現代語訳>
むかし、ある男がいた。その男が、伊勢の国に狩の使として派遣されて行った時、伊勢神宮の斎宮であった女性の親から、「いつもの勅使よりはこのお方は特に大切にお持て成しして欲しい。」と言って来たので、特別気を使ってその男の世話をした。朝は支度を整えて狩りに出してやり、夕方帰ってくると、自分の御殿に連れて来てねんごろにいたわった。
二日目の夜、男は斎宮の女性に、是非ともお遭いしたいと文を書いた。女性の方でも、憎からずと思ったので、逢ってもよい気になったが、人目が多いので逢うことができない。男は正使格なので、離れた部屋ではなく、斎宮の部屋に近いところに泊まっていた。斎宮は、真夜中を過ぎて人が寝静まった頃、男の所へやって来た。男が寝られずに外の方を見ながら横になっていると、朧な月の光の中に召使の童女を先に立てて女が立っていた。
男は大層嬉しくなって、女を自分の寝所へ連れて入った。ところが、女が来るのが遅過ぎたため、男が未だ何もしない内に夜が明け始め、女は帰らなければならなくなった。男はひどく悲しくて、その夜はとうとう眠ることが出来なかった。
朝になって、男は女のことが気になって心が落ち着かなかったが、男子禁制を犯した女に、やたらに文を出す訳にもゆかず、不安な気持ちでいると、女の方から文の言葉ではなく、歌だけが届いた。「君やこし 我や行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てか醒めてか」(昨夜は、貴方が来たのか私が行ったのか、はっきりしません。夢だったのか現だったのか、寝ている間のことか醒めている間のことか、それも分からない。)
男はひどく泣きながら返歌を詠んで送ってやった。「かきくらす 心の闇に惑いにき 夢うつつとは今宵定めむ」(私も昨夜は夢中でしたので、心の闇に迷ってしまってよく憶えていない。夢か現か今夜もう一度逢って確かめよう) 男はそれから狩に出かけたが一日中上の空で、今夜こそ早く人を寝静まらせて女に逢おうと思った。
ところが、国守で斎宮寮の長官を兼ねている人が、狩の使が来ていると聞いて、徹夜の招宴を催すことになった。男は、一向に女に逢うことができないままで、しかも、夜が明ければ尾張の国へ出立する予定になっていたから、秘かに血の涙を悲しんだが、遂に逢うことができない。
夜が漸く明け放たれようとする頃、女の方から別れの盃の裏に歌を書いたのを送ってきた。手にとって見ると「徒歩人(かちひと)の渡れど濡れぬ江にしあれば」(徒歩の人が渡っても濡れない江のように、誠に浅いご縁でした)と上の句しか書いてない。それに男が松明の墨で下の句を書き足して返してやった。「またあふ坂の関は越えなむ」(また逢坂の関を越えてお逢いしたいものだ。) 夜が明けると、男は尾張の国へ旅立って行った。
<注釈>
【狩の使】(かりのつかい)
平安初期、近衛府の役人で、勅命によって全国に派遣され、鷹狩りを行なう役目の者で、地方の査察を兼ねた。狩の使は一人ではなく、正使が一人と数名の部下から為る査察団であったと思われる。この制度は、延喜五年(905)に廃止された。
【斎宮】(さいぐう又はいつきのみや)
天皇が即位すると、皇族の中から未婚の皇女を選んで伊勢神宮に奉仕させる仕来たりがあった。その役目を与えられた皇女を斎宮という。」勿論、男子禁制であるが、現代の学者が当時の設計図を調べたら、斎宮の部屋と男の寝所が繫がっていることが判明した。だから、男子禁制は建前で、実際には狩の使のような話が有り得た。なお、原典の六十九段の末尾に、後から付け加えたと思われるが、この話に出てくる斎宮は、56代・清和天皇の御代の斎宮で、55代・文徳天皇の皇女・惟喬親王(これたかのみこ)の妹(業平とは姻戚関係)と記されている。
<鑑賞>
古代の男女関係は、男が女の許へ行くのが普通なのに、いくら斎宮の親(55代・文徳天皇)から特別大切に持て成すように言われたとはいえ、女の方からのこのこ男の部屋に行くのは、大胆と言うべきか何と言うべきか。御殿の作りが、斎宮の部屋と男の部屋とが繫がっているとは、新発見。
夜の雨
吉井 勇作詞、杵屋六左衛門作曲の「夜の雨」という小唄は、大分前に一度唄ったことがあるが、十月二十一日の江戸小唄城南友の会で、蓼静奈美師の糸で再び唄うことになった。以前唄ったときは、唯なんとなく、一風変わった唄だと感じただけで、それ以上詮索する気はなかったが、今回は、ブログに載せてみようと思い、例によって、木村菊太郎氏の「昭和小唄その三」を紐解いた。
敗戦後の日本が、高度経済成長の波に乗り始めた昭和三十年代は、小唄界が我が世の春を迎えた時代であった。ゴルフ、囲碁、小唄が社会的用語で「三ゴ時代」と呼ばれ、サラリーマンたる者は、ゴルフ、囲碁、小唄を嗜まなかったら勤まらなかった。当時、小唄の家元は百を数え、小唄人口百万とも云われ、「江戸小唄新聞」、「邦楽の友」が発刊され、小唄がラジオに進出、レコード会社は、小唄レコードの発売に力を入れるなど、まさに小唄の黄金時代であった。
そうした時代背景の中で、レコード会社のコロンビアが、新しい企画として、新作小唄の発売を世に問うたのが小唄十二ヶ月シリーズというレコードである。これは新作小唄十二曲を一枚のレコードに収め、数回に亘って発売した。その第一回の六番目(六月)に「夜の雨」が収録されている。コロンビアは、この新作小唄シリーズのため作詞を京都に住む歌人で劇作家の吉井 勇を起用し、作曲は長唄の名人・杵屋正邦に依頼するなど、大変な力の入れようであった。
吉井 勇の作による「夜の雨」の歌詞は、「待てど来ぬ 人を恨みて 恨みて人を ラジオかければ 亡き音羽屋に声も良く似た声色使い <丁度所も寺町の 娑婆と冥土の分かれ道 その身の罪も深川に 橋の名せえも閻魔堂>橋の夜の雨」(<>の中は科白)という型破りのもので、曲付けを依頼された春日とよ家元が、「こんなのは小唄じゃないよ」といったかどうか。作曲は、十四世杵屋六左衛門に変更された。
吉井 勇の歌詞に、おこがましくも、筆者が勝手に注釈を付ければ、梅雨時の雨もよいの夜、多分芝居好きの遊女が男を待っているが男は来ない。所在がないままラジオをかけると思いがけなく六代目菊五郎の声色。昭和三十年代、声色の名人・悠玄亭玉介が活躍していた。<丁度所も寺町の・・・>、この科白は、髪結新三の芝居の大詰め、閻魔堂橋の場で、予て新三に遺恨を持つ乗物町の源七親分と新三が命のやり取りをする場面で、新三の小気味の良い粋な科白が評判であった。それがこの小唄の聞かせ所でもある。
<丁度所も寺町の>という箇所を或る師匠のテープで<丁度所も寺町に>と唄っていたが、<丁度所も寺町の>が正しい。又、小唄本「千草」では、<その身の罪も深川の>となっているが、<その身の罪も深川に>が正しい。講談社発行、歌舞伎座百年記念歌舞伎名作選集で確かめた。
髪結新三の小唄といえば、久保田万太郎作詞、山田抄太郎作曲の湯帰り新三が極め付きであるが、大詰めの新三の六代目音羽屋の科白も捨て難い。十月二十一日の「夜の雨」にはどんな新三が飛び出すやら。
第十三話「つくも髪」(原典第六十三段)
むかし、男を慕い求める心が強くなった女がいた。そjの女は、何んとかして情愛の深い男に逢いたいものと思ったが、口に出して云うのも可笑しいので、作り話の夢の話をすることにして、三人の息子を呼び寄せた。
三人の息子に、夢の話をしたところ、長男と次男はすげない反応しか示めさなかったが、三男は、「きっといい男がお出来になるでしょう」と夢判断をしてくれたので、この女は、大層上機嫌になった。
そこでこの三男は、他の普通の男では詰まらないので、いっそのこと、情が深いと評判の在五中将(業平のこと)に逢わせてやりたいと心に思った。すると偶々中将が馬に乗って狩りをしているとこに出会ったので、道でその馬の口を取って、「こうこうして頂きたいと思っています」と言ったところ、中将は心を動かされて、女の家に来て一緒に寝た。
ところがそれっきり、中将は来なくなったので、女は中将の住いへ行き、屋敷の中を覗き見した。それを中将がちらりと見つけて、「百年(ももとせ)に 一年(ひととせ)足らぬつくも髪 我を慕うらし おもかげに見ゆ」(百年に一年足りないつくも髪の老女が 私を恋しく思っているらしい。ぼさぼさ白髪頭の幻が見える)と詠んで出掛け様とする様子。それを見た女は、茨や枳殻(からたち)の棘に刺されながら急いで家に帰り、横になっていた。
中将が女の家にやって来て中を覗き見すると、女が歎きながら寝ようとしている様子で、「さむしろに衣かた敷き今宵もや 恋しき人に逢わでのみ寝む」(狭い筵の上に衣の片袖を敷いて、今晩もまた、恋しい人に逢わないで、独り寝するのだろうか)と詠んだのを聞いて、中将は不憫に思い、その夜は、その女と伴寝をした。
男女の仲の例として、好きな人を思い、好きでない人は思わないものなのに、この在五中将という人は、好きな人に対しても、好きでない人に対しても、区別を見せない心があったのでした。
<注釈>
【つくも髪】
百から一を引いた九汁九(つくも)髪。老女の白髪をいう。
【在五中将】
阿保親王の五男である在原業平は右近衛権中将の位を賜ったので、在五中将と呼ばれた。
【枳殻(からたち)】
(中国から渡来した(からたちばな))の略で、落葉低木、鋭い棘があり、防犯用の垣根として用いられた。
<鑑賞>
この物語には、非常に古い伝説の原型が残っている。それは、シェクスピアの「ラヤ王」などとも共通するもので、兄弟の中で末子だけが親に忠実であるとする見方による、太古における末子相続(長子相続は後世の習慣)の慣例を反映している。
泡でのみ」
第十二話「鳥の子(とりのこ)」(原典第五十段)
むかし、ある男がいた。その男は、自分の浮気を恨む女を、逆に恨み返してやり、「鳥の子を 十づつ十は重ぬとも 思わぬ人を 思うものかは」(鶏の卵を、十個づつ十も重ねるようなことが出来たにしても、自分のことを思ってもくれない人を、思うなんて、そんなことがあり得ようか)と詠んでやった。すると女から、返歌が来た。
「朝露は 消え残りてもありぬべし 誰かこの世を頼み果つらむ」(儚い朝露が消え残るということもあるでしょう。 でも、貴方の心は、少しも私に対し残っていないのですもの、そんな貴方みたいな人を、誰がこの世で頼みにすることが出来ましょうや)これに男が、また歌い返した。
「吹く風に 去年の桜は散らずとも あな頼みがた 人の心は」(去年の桜が、吹く風にも散らないで、今日まで残っているようなことがあったにしても、ああ頼み難いのは、人の心です。) するとまた女からの返歌。「行く水に 数書くよりも儚きは 思わぬ人を思うなりけり」(流れて行く水の面に数字を書くよりも儚いのは、思ってもくれない人を思うことです。) それに男がまた返歌した。
「行く水に 過ぐる齢と散る花と いづれ待ててふことを聞くらむ」(流れ行く水と、過ぎ去る年齢、散って行く花と、その中のどれが待てという言葉を聴いてくれるでしょうか、どれも聴いてはくれない。この世は儚いものでっす。)
この話は、お互いに相手の浮気を、恨みっこした男と女が、詰まるところ、どちらも内緒で浮気をしていたという話なのだろう。
<注釈>
【鳥の子(とりのこ)】
鳥の卵の中で、特に鶏の卵を「鳥の子」といった。
【朝露】
「消える」、「いのち」、「置く」などの言葉の枕詞としてつかわれるほか、消えやすい儚いものの例えとして使われる。
<鑑賞>
お互いに相手の浮気を恨む歌を寄せ集め、問答形式に並べているが、あまり、一貫性は無い。しかし、最後に付け足した文章が、山葵が効いている様で、面白い。
辰巳やよいとこ
(長崎の料亭・一力 右手に「辰巳」の句碑)
「辰巳やよいとこ 素足が歩く 羽織ゃお江戸の誇りもの 八幡鐘が鳴るわいな」
(伊東深水作詞、常磐津三蔵作曲)
凡そ小唄を嗜む人で、この小唄を知らない人はいない、と言われる位ポピュラーな小唄であるが、その由来を知っている人は意外と少ない。 この小唄については、木村菊太郎著、昭和小唄三部作・その一の124頁に、その誕生の経緯が詳しく述べられている。
時は、大正十五年一月、伊東深水が二十八歳のとき、深水の常磐津の師匠であり常磐津の名人である二世・常磐津三蔵から、長崎へ稽古に行くから一緒に行かないかと誘われた。三蔵はその頃、長崎の芸者達に常磐津の出稽古に行っていたのである。長崎には、有名な丸山遊郭もあり、二つ返事で承知し、スケッチブック一冊持って同行した。
遊び盛りの深水は、当時、美人画の第一人者・鏑木清方について修行を続ける傍ら、深川芸者の気風の良さに馴れ親しんでいたが、旅のつれづれに、思いつくまま、「辰巳やよいとこ 素足が歩く・・・・}の歌詞を、スケッチブックの隅に悪戯書きしていた。
長崎へ着いて、長崎で最も古く江戸時代から続く由緒の或る料亭旅館「一力」に逗留した。そこはかつて幕末の頃、坂元竜馬や高杉晋作などの志士達が利用したので知られた茶屋である。常磐津三蔵も長崎へ来ると、十日も二十日も逗留し、稽古の合間には、丸山遊郭へも足を運んだであろう。
或る日の宴席で、深水が、車中で書いた「辰巳やよいとこ・・・・」の歌詞を三蔵に見せたところ、彼は一目見て、これは小唄になるよと言って、宴もそこそこ、二人で五右衛門風呂に浸かりながら、湯ぶねを叩いて拍子をとったりしながら、曲作りに熱中した。風呂から上ると、三蔵が三味線を弾いて曲が出来上がった。
この最も小唄らしい小唄の名曲が、忽ち長崎の芸者の間で評判となり、持て囃され、長崎の花柳界に広まった。やがてこの小唄は、江戸っ子の小唄愛好家の間にも広まって行き、昭和三十年の頃、小唄ブームに乗って我も我もとこの小唄を唄った。伊東深水は、「あの小唄は、種は深川、生まれは長崎ということになりましょうか」と人に語ったと言う。長崎の料亭・「一力」のの玄関の入り口には、「辰己やよいとこ」の句碑が建てられている。しかし今は、この句碑の存在を知る人は少ない。
第十一話「うるわしき友」(原典第四十六段)
むかし、ある男が、大層仲のよい友人を持っていた。片時も忘れず相手のことを思っていたのに、その友人が地方へ行くことになって、大変悲しい思いで別れた。月日がたって、その友人がよこした手紙に、「我ながら驚くほど長い間、お目にかからずに月日がたってしまいました。もう私のことなどお忘れになったのではないかと、大変心淋しく思っております。世間の人の心は、会わずにいるとその人のことを忘れてしまうのが習いのようですね。」と書いてあったので、男は次のように詠んでやった。
「めかるとも おもほえなくに 忘らるる時しなければ 面影に立つ」(会わなくても 疎遠になったという気もせず 忘れる時もないのですから 貴方の姿かたちがいつも目に浮かんでいます。)
<注釈>
【めかる】
「目離る」と書く。男女や友人同士が会わないでいて疎遠になることを言う。友人から来た手紙の原文には、「世の中の人の心は目離るれば、忘れぬべき物にこそあめれ」と書いてあった。
【面影】
顔つきや姿かたちという意味と、もう一つ幻という意味がある。古代には、自分が相手を思い続けていると、相手の面影が瞼に見えてくるという信仰があった。
<鑑賞>
伊勢物語には、第四十六段のように、友情を主題にした歌が、男女の恋を詠んだ歌の数に劣らないほど詠まれている。そしてまた、男の友情の歌を男女の恋の歌として読んでも、全く不自然でないものが多い。現代においては、男同士の友情をテーマにした歌はあまり見かけない。古代では、友情も恋に似た思いだったのかも知れない。
都鳥
小唄の友達から、今度「都鳥」を唄いたいので、テープがあったら送って欲しいと頼まれた。幸い、手持ちのテープがあったので送ってやり、私も予々、この唄は、唄ってみたいと思っていたので、早速、木村菊太郎氏の名著「小唄鑑賞」を紐解き、この唄の故事来歴を調べてみた。
余談になるが、都鳥と言う鳥は、在原業平が、「名にし負わば いざ言問わん都鳥 我が思う人 在りや無しやと」と詠んだ都鳥であるが、本当の都鳥は、チドリ科の鳥で、夏にシベリアで繁殖し、春秋日本を通過する鳥で、業平は、ユリカモメを都鳥と取り違えた。しかし、それ以来ユリカモメの雅名を都鳥と称するようになった。
余談はさて置き、木村菊太郎氏の「小唄鑑賞」117頁に都鳥の小唄解説が載っている。先ず歌詞は、「都鳥 流れに続く燈篭の よるよる風の涼み船 波の綾瀬の水清く こころ隅田の梶枕」で、作者不詳であるが、明治十一年七月、隅田川で行なわれた流燈会を唄った江戸小唄で、曲付けしたのは初代清元菊寿大夫である。
隅田川の燈篭流しを企画したのは、明治二年以来、墨堤に茶店を開き、業平の故事に因んで言問団子を売り出した外出佐吉(別名・植佐老人)という人物で、評判の団子目当てに集まる当時の下戸文人・仮名書魯文、成島柳北、伊東蕎堤などと語らって、盂蘭盆の日、隅田川に、都鳥を形どった燈篭を流すことを考えた。綾瀬・水神の森辺りから、百個余りの燈篭を、流れのままに船で曳いて下るもので、このイベントが大当たり、大評判になった。見物人たちは、百花園の萩を観ての帰り、夕食代わりに言問団子を食べて、暗くなった頃、隅田川に涼み船を浮べ、燈篭流しを見物しながら一夜を明かすという寸法であった。
言問団子は、長命寺の桜餅と共に、江戸の名物となった。「都鳥」という小唄は、団子に釣られて集った文人達が作詞したものであろう。これに曲を付けた初代清元菊寿大夫は、当時五十九歳、芸は円熟に達していたが、親子ほど年の違う弟子を女房にし、芸が色っぽいといわれていた。「都鳥」の曲は、替手が入り、賑やかな曲で、隅田川の夜景を目の当たりに見るような美しい江戸風俗小唄となっている。
昭和四十四年四月十日発行の「風流」という雑誌に載せられた安藤鶴夫の「雪もよい」という随筆がある。要約すると、昭和四十三年の暮れ、数え日(年内の残り少なくなった日)になって、疾うに後家になった菊村さんの卒寿の祝で社中が集まり、その席に、遠藤為春、渋沢英雄、田中青磁、安藤鶴夫などが客として招かれた。そのとき田中青磁が、菊寿大夫の作曲した「都鳥」を自らテープに吹き込み、それを持って行って菊村さんに聞かせてやった。菊村さんは、目を瞑ってそれを聴いていたという。その日は、雪催いの寒い日であった。
第十話「ゆく蛍」(原典第四十五段)
むかし、ある男がいた。ある人が大切に養い育てている娘が、何とかしてこの男に言い寄りたいと思っていた。しかし、口に出して言い難かったのであろうか、病気になり死にそうになって初めて、「こんなにもあの人のことを思っていました」と打ち明けた。それを聞き付けた親が、泣く泣くその男に告げたので、男は急いで女の家へやって来た。
然し女は死んでしまったので、男はそのまま、女の家でぼんやりして、なにもすることもなく、喪に服し家に篭っていた。時は六月の末の頃で、大層暑い季節のことだったから、宵の内は、死んだ女の霊を慰めるため、管弦を奏でたりしていたが、夜が更けると、いくらか涼しい風が吹き出した。
すると、一匹の蛍が空高く舞い上がった。男は横になったままそれを眺めて、「行く蛍 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁に告げこせ」(空を行く蛍よ、雲のうえまで飛んで行くなら、下界にはもう秋風が吹いていると雁に告げておくれ)。続いて「暮れ難き 夏の日ぐらし ながむれば そのこととなく ものぞ悲しき」(暮れ難い夏の日を、一日中ぼんやりと物思いに沈んでいると、何と言うこともなく物悲しい心地がする)などと詠んだ。
<注釈>
【雁】
中国の故事に、辺境の地に囚われの身となった漢の蘇武という男が、雁の脚に手紙を結んで、故郷の漢に届けさせたと言う。それで、手紙のことを雁の使い、雁書ということがある。
【ながむれば】
物思いに沈み、呆然としている様子をいう。
<鑑賞>
喪に服して家に引篭もるというのは、死者の親族のすることである。従って男は、自分を、死んだ女の夫として意識したということで、自分を思って死んだ女の霊を妻と思って喪に服した古人(いにしえびと)の気持ちは、分かるような気がする