八海老人日記 -2ページ目

第四話 大東京史跡ロマンス その四「中野長者」

 紀州(和歌山県)から、代々熊野大権現の神職を務めた鈴木家の末裔である鈴木九郎という男が、其の日暮らしも儘ならない、尾羽打ち枯らした姿で、武蔵の国、中野の本郷村にやって来たのは、今から600年以上も昔、室町時代のことであった。彼の商売は馬商人であった。新武蔵野物語の著者・白石実三氏は、鈴木九郎を瘠せ浪人と貶しているが、私にはそうは思われない。


 彼は、やがて長者となる人物である。戦乱に明け暮れる京の都を離れて、馬商人をしながら、世の中をとっくりと見て歩き、見聞を広め、そこから色んな事を学んだであろう。凡庸な人物であった筈はない。


 彼がある時、一匹の馬を売って得た銭が、全て大観通宝という古銭であった。彼はそれを不思議に思い、その古銭を全部、日頃信心している浅草の観音様へ寄進した。ここから物語が始る。


 彼がどういう積りで観音様へ寄進をしたのかは分らないが、それ以来、彼に運が巡って来て、あれよあれよと言う間に大金持ちになり、中野長者と言われるようになったんだそうだ。現代風に解釈すれば、その頃、一面の薄の原であった中野界隈で、彼は農民の労働力をうまく使い、土地の開墾と陸稲などの栽培をやり、それでお金を儲けたと思われる。


 しかし、大金持ちになった彼は、お金を人に盗まれることを恐れ、時々お金を下男に背負わせ、今の新宿中央公園あたりに穴を掘って隠匿させた。そしてこのことが漏れないように下男の帰りを橋の袂で待ち伏せて殺し、死骸を神田川へ投げ込んだ。下男が消えてしまうので、世間の人はこの橋を「姿不見の橋」(すがたみずのはし)と呼ぶようになった。江戸時代になって、三代将軍家光が鷹狩の途中、この話を聞き、橋の名に相応しくないというので、近くの水車が京都の淀の風景に似ていることから、以後淀橋と呼ぶことを命じたという。多分これは作り話であろう。

 

 もう一つの話は、中野長者には一人娘がいて、それはそれはkもう、目の中へ入れても痛くない程の可愛いがり様だった。その娘の名は、小笹と言ったが、年頃になって、お嫁に行くことになった。所が小笹のお嫁入りの行列が「姿不見橋」の袂まで来ると、急に花嫁の小笹が狂い出し、川に落ちて死んでしまった。これを人々は、長者が何人もの人の命を奪った祟りだと恐れた。それ以来嫁入りの行列は、絶対にこの橋を渡らず、近くてもわざわざ遠回りする習慣が、戦前まで残っていた。


 娘・小笹の非業の死にすっかり目が醒めた長者は、頭を丸めて出家し、住んでいた自分の屋敷をそのまま寺とし、そこで仏に仕える身となり小笹の後生を弔った。こうして出来た寺が、中野坂上に今も残っている成願寺である。又、現在西新宿に在る十二社(じゅうにそう)熊野神社は、当初鈴木九郎が、紀州熊野権現の神職の末裔だったことに因んで、長者と言われるようになってから紀州から新宿に移した神社で、今では新宿の総鎮守として知られている。


 中野長者の伝説は、世の移ろいと共に、次第に忘れ去られ様としているが、神社、仏閣の名前や地名などで史跡の名残を残すものが多い。それにしても、中野長者伝説ほど多くの痕跡を今に残している史跡は稀である。


 


 

第十八話「布引の滝」(原典第八十七段)

 <現代語訳>

 むかし、ある男が、摂津国菟原郡(うばらごおり)芦屋の里に領地があったので、そこへ行って住んだ。昔の歌に、「芦の屋の灘の塩焼き暇なみ 黄楊の小櫛も差さず来にけり」(芦の屋の灘の塩を焼く海女は、暇もなく忙しいので、好きな黄楊の櫛も差さずにやって来た。)と詠まれたのはこの里で、ここを芦屋の里と言った。


 この男は、名ばかりとは言え、宮仕えをしていたので、その縁で衛府佐(えふのすけ)などの宮仕えの仲間達が遊びにやって来た。男の兄も衛府督(えふのかみ)であった。一行は、男の家の前の海辺を遊び歩いているうちに、「この山の上にあるという布引の滝を見に行こう」ということになり、山を登って行って見ると、その滝は普通の滝とは大層違って見えた。


 長さは二十丈、幅は五丈ばかりの岩の上に、丁度白絹でその岩を包んだ様に水が落ちていた。そんな滝の上に円坐ほどの大きさで突き出ている石があった。その石の上に走りかかる水は、小さい蜜柑か栗の大きさで零れ落ちている。さて、そこに来た人みんなに滝の歌を詠ませることになった。


 衛府督が先ず詠んだ。「わが世をば 今日か明日かと待つ甲斐の 涙の滝といずれ高けむ」(この世が自分の思いのままになる日が今日か明日かと待っているが その甲斐もなく 自分が嘆く涙の滝とこの滝とどちらが高いだろうか)


 あるじの男が次に詠んだ。「抜き乱る人こそあるらし 白玉の 間なくも散るか袖の狭きに」(この滝の上で誰か、緒に通した玉を抜いて散らす人がいるようだ。白玉が絶え間なく散ることだ。白玉を受けて包もうにも私の袖はこんなに狭いのに。)男がそう詠んだので、回りの者たちは妙な気分になってきて、この歌に感心したことにして、もう詠むのを止めにしてしまった。


 帰り途は遠くて、亡くなった宮内卿・もちよしの家の前まで来ると日が暮れてしまった。我が家の方を眺めると、海女の焚く漁火が沢山見えるのであるじの男が詠んだ。「晴るる夜の星か川辺の蛍かも わが住む方の海女の焚く火か」(晴れた夜の星だろうか、それとも川辺の蛍だろうか。或いはまた、自分の住んでいる芦屋辺りの海女の焚く火だろうか)


 それから一行は家に帰って来た。その夜は南の風が吹いて、波が大層高かった。翌朝早くその家の召仕の女共が海辺に出て、波に打ち寄せられた浮海松(うきみる)を拾い集めて家の中へ持って来た。奥方がそれを高つきに盛り、その上に柏の葉を被せて客の前に出した。その柏の葉には次の様に書いてあった。「わたつみの 翳しに差すといわう藻も きみがためには惜しまざりけり」(海神が翳しに差すという藻も、あなたのためには惜しまず打ち寄せてくれたのでしょう。)


 田舎女の歌にしては、出来過ぎだと褒めておこうか、それともやっぱり不出来だと言ってやろうか。


<注釈>

【摂津国菟原郡芦屋】

 現在の兵庫県芦屋市近辺。


【黄楊の小櫛】

 昔から女の大事な化粧品。


【衛府】

 宮中を警護する役所。「佐」は次官、「督」は長官。


【布引の滝】

 神戸市の六甲山登山道の途中に今もある滝で、古くから名瀑として知られる。


【二十丈】

 一丈は約3m.。二十丈は約60m。


【宮内卿】

 宮中の事務を管轄する役所の長。


【もちよし】

 藤原元善朝臣(生没不祥)のことだと言われる。


【海松】

 食用になる海藻。


<鑑賞>

 伊勢物語の中には、長い年月の間に、洗練されて行った段章もあれば、余計な手を加えて出来損なったと思われる段章もある。「布引の滝」は後者の一つの見本かとおもわれる。初期の原典87段は、芦屋の海女の風俗歌が主で、「布引の滝」の挿話と歌は後から加えられたもの。



t長兵衛

 3月27日(土)、三越劇場で催される菊地満佐家元の師歴五十五年記念会に、ゲスト出演させて頂いて「長兵衛」を唄うことになった。市川三升作詞草紙庵作曲のこの小唄は、昭和七年六月、九代目団十郎の三十年遠忌追善興行の時に作られた。私はこの小唄には些か思い出がある。


 私が小唄を習い始めて十数年経って、漸く小唄というものが朧げながら分りかけてきた頃、毎年ホテルオークラで催される菊地派の小唄会に、私も時々ゲストで参加させて貰っていた。ある時、もう何番かで終わりという頃、ひょっこり会場に現れたのが、かの新日鉄会長・稲山嘉寛(いなやまよしひろ)さんであった。稲山さんは、八幡製鉄の社長として富士製鉄との合併を成し遂げ、新日本製鉄の社長として大変な功績を残された方であるが、その後、会長に退かれ、以前から親しかった菊地派家元の会に顔を見せられたのはその頃と思われる。


 菊地満佐家元が稲山さんに何か唄って下さいとお願いしたところ、「いやあ、聞かせて貰うだけで結構です」と遠慮しておられたが、家元がたってとお願いするとそれじゃと言って唄われたのが「長兵衛」であった。稲山さんの「長兵衛」は、清元などで鍛え抜かれた渋い喉で、私はすっかり魅了され、まるで魂を奪われたような思いであった。


 稲山さんは、その後数年経って84歳で亡くなられたが、私も、もう間もなく満87歳で、何時まで唄えるか分らない。稲山さんには及びもつかないが、私の小唄人生の思い出に、「長兵衛」を唄って見ようと思い立った次第。


 そもそもこの小唄の題材となった歌舞伎は、「東海道四谷怪談」などで知られた江戸後期の狂言作者・四代目鶴屋南北の作「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」の中の「鈴ヶ森の場」で、九代目団十郎の当り役・幡随院長兵衛が白井権八と出会う場面から取ったもので、九代目団十郎の女婿・市川三升(十代目市川団十郎)の歌舞伎小唄作詞第一作であった。


 この小唄の歌詞は、「阿波座烏は浪速潟 藪鶯は京育ち 吉原雀を羽げえにつけ 江戸で男と立てられた 男の中の男一匹 何時でも訪ねてごぜえやし 陰膳据えて待っておりやす」であるが、目の覚めるような美少年の白井権八と男の中の男と謳われた幡隋院長兵衛が初めて出会ったのが、東海道は品川近くの鈴ヶ森であった。


 白井権八は人を殺めて逃走中、長兵衛は品川の遊郭へ遊びに行く途中。群がる雲助をぱったぱったと切り捨てる権八の刀捌きと度胸に惚れ込んだ長兵衛が権八に声をかける有名な科白:「お若えの 待たっせえやし」 すると権八が:「待てとお留めなされしは手前がことにござるよな」 この後互いに名乗り合ったりして、そのあとに続く科白が小唄の歌詞に取り上げられた。


 小唄「長兵衛」は、小唄の半分を占める科白が聞かせどころである。この小唄を演ずる人は、自分が長兵衛になった積りで貫録たっぷりに演じなけかれば価値がない。今は、九代目団十郎の声を聞くことはできないが、幸い私の手元に九代目団十郎の芸を継いだ七代目松本幸四郎のCDがあるのでこれを聞いて勉強したい。さてどんな「長兵衛」になるやら。

第三話 大東京史跡ロマンス その三 「足立姫伝説」

 昔々、武蔵国の足立郡という所に足立荘司という長者が住んでいた。何不自由なく暮らしていたが、唯一つ、夫婦の間に子宝に恵まれず、淋しい思いで過ごしていた。そこで長者は、紀州の熊野権現に詣でて、子宝が授かりますよう熱心に祈願した。するとその甲斐あって、玉のような女の子が授かった。


 長者の娘として生まれた姫は、足立姫と名付けられてすくすくと育ち、輝くような美貌で、荒川の花と謳われた。やがて年頃となって、父の命で豊島城主の許に嫁いだが、美しい姫には、既に意中の人がいたのである。恋しい人への想いを胸に秘めた姫は、父の命には逆らえず、豊島城に輿入れしたが、老城主との折合いがうまく行かず、姑も意地悪で、何かにつけて姫に辛く当った。


 ある夜、遂に我慢の緒が切れた姫は、侍女達と共に城を抜け出した。しかし城は出たものの、一徹な父の許には帰ることはできず、泣く泣く恋しい人の名を呼びながら沼田川に身を沈めたのであった。侍女たちもそのあとを追った。


 その後、侍女達の遺体は発見されたが、姫の亡骸はとうとう見付からず終いだった。足立長者は大層悲しんで、政略結婚をさせたことを後悔した。亡骸も出ずに彷徨よっている姫の霊を弔うため、長者は巡礼の旅に出た。そして娘の出生に縁のある熊野権現に立ち寄り、数日間お籠りをして娘の菩提を弔った。すると最後の晩、夢の中に権現様が現れて、「霊木を授ける。その木で阿弥陀の仏像を刻み、娘の霊を弔うように。」と告げた。


 巡礼を終え故郷に帰った長者が、沼田川の水辺に流れ着いた霊木を発見した丁度その頃、偶々行基菩薩が旅の途中、足立地方を通りかかった。長者は行基菩薩を厚くもてなし、熊野権現のお告げがあった事を話して行基菩薩に仏像を作って欲しいと頼んだところ、行基菩薩は快く承諾し、一晩で六体の阿弥陀仏像を作り上げ、更に余った木で二体の仏像を作って長者に与えた。


 現在、六体の阿弥陀仏と余木から作った二体の仏像は、足立区の恵明寺、性翁寺、北区の西福寺、無量寺、余楽寺、昌林寺、江東区の常光寺、調布市の常楽院などに安置され、講中による六阿弥陀詣でが行われている。

 

 荒川の堤の五色桜がちらほら咲き始める頃、下町風の上さんや艶な娘さん達が、白の手甲に脚絆姿で、鈴を鳴らしながら堤の上を通る。これが武蔵野の聖地巡礼という訳で、伝説に残る足立姫の悲恋物語を想い浮かべながらの六阿弥陀詣でなのである。


 <編者註>

【五色桜】

 荒川堤に咲き誇る里桜の愛称。一本の木に五色の花が咲くのではなく、様々な品種の桜の並木が、五色の霞が棚引くようにみえた所からこの名が付けられた。明治45年、当時、東京市長であった尾崎行雄氏から米国ワシントンD.C.に贈られ、ポトマック河畔に植えられた日米友好のシンボルとされた桜が、この荒川堤の五色桜であることを知る人は、今は少ない。

【沼田川】

 今の隅田川。

【豊島城主】

 豊島氏は武蔵国切っての大豪族で、三宝寺池の畔、石神井の城を居城としていたが、1477年、大田道灌によって滅ぼされた。

 

佐々舟澄枝さんの「お園」

 世は元禄時代(1680~1709)、五代将軍・綱吉の頃、心中事件の多発した時代である。その内の一つ、三勝、半七の心中事件を題材にし、安永元j年(1772年)戯作者・竹本三郎兵衛書き下ろしの浄瑠璃「艶姿女舞衣(はですがたおんなまいきぬ)」は、大阪、豊竹座で上演され、大当たりを取った。小唄「お園」は、この中の「酒屋の段」の半七の新妻・お園の口説の場面を小唄にしたものである。


 ここで、心中事件が多発した元禄時代とはどんな時代であったか、振り返って見たい。家康が江戸に開府してから77年。戦乱の世が漸く収まって治世も安定した中で、最も変わったのは町人の世界である。幕府が外様大名の力を削ぐため、盛んに公共工事を大名に課した。町民の業者が役人と結託し、水増し見積りで過大な利益を得、そこからリベートを役人にばら撒いた。


 その頃、程々の賄賂は公認であったが、町民業者は程々を通り越し大儲けした中から役人に賄賂を送り、役人と業者の癒着が発生した。かくして豪商が続出した結果、遊郭が栄えた。代々の将軍も、日光参詣など派手な行事をやって金をバラ蒔いた。その挙句財政が苦しくなり、貨幣の改鋳をやった。その結果元禄バブルが始り、町民は益々活気づいた。


 町民が活気づくのは良いとして、手代や番頭程度の身分で遊郭に出入するようになった。遊郭の遊女達は金で売られてきた女が多く、そういう初心な女たちとの恋愛沙汰が頻発した挙句心中事件が多発した訳である。もう一つの原因は、当時の結婚事情である。当時の結婚は家と家の政略結婚が殆どで、個人の自由結婚は許されなかった。だから気に入らぬ相手と結婚させられた者が奉公人などと不倫を犯すことは、よくあることであった。そんなことで心中事件が多発したと考えられる。また、心中事件は歌舞伎浄瑠璃に恰好な題材を提供し、戯作者達は腕に撚りをかけて心中事件を美化した。幕府はこんな風潮を憂いて、心中事件の当事者を厳しく罰した。


 有名な曽根崎心中が起きたのもこの頃。心中事件が起きるとすぐ歌舞伎浄瑠璃化された。ニュース性が高かったからである。三勝、半七の心中事件も同様。事件が起きたのが元禄八年十二月七日。歌舞伎化されたのが翌年の正月二日、大阪で上演され、150日のロングランを取った。


 酒屋の段のお園を唄った小唄は幾つかあるが、今でもよく唄われるのが、春日とよ作曲の「お園」で、古曲の「木枯らし」も、お園の独り寝の心情をうたっていると、木村菊太郎氏の「芝居小唄」に書いてある。佐々舟家元作曲の「お園」も、春日とよさんの「お園」と同じ酒屋の段の場面であるが、古典的な春日とよさんの曲作りに対して佐々舟家元の「お園」の曲は現代小唄の名曲だと思われる。


 歌舞伎「艶姿女舞衣」の梗概は、大和国(奈良県)宇治郡五条新町の酒屋・茜屋(あかねや)の跡取り息子の半七は、お園を新妻に迎えたが、一日も家に寄り付かず、大阪・島之内美濃やの女舞(湯女)の許に入り浸り、お通という子まで成す有様で、父・半兵衛から勘当される。それが三勝を巡る争いから人を殺めてお尋ね者となり、もはやこれまでと、お通を茜屋の格子先に捨子し、三勝、半七は死出の旅路に立つ。処女妻のお園は、夫半七に嫌われ、これも自分の至らぬ所為と、暗い行燈の下で帰らぬ夫を待ちわびる。


 「今頃は半七つぁん、何処でどうしてござろうぞ。今更返らぬことながら、わしという者ないならば、半兵衛さんもお通に免じ、子まで成したる三勝殿を疾やにも呼び入れさしゃんしたら、半七様の身持もも直り、ご勘当もあるまいに、思えば思えばこの園が、去年の秋の患いに、いっそ死んでしもうたら、こうした難儀は出来ないものを」と、お園の口説きを語る浄瑠璃に、テレビも無かった頃、多くの人達が涙を絞ったものであった。

第十七話「目離れせぬ雪(めかれせぬゆき)」(原典第八十五段)

 再び「伊勢物語の世界」「小唄人生」「新武蔵野物語」の順に戻る。


<現代語訳>

 昔、ある男(在原業平)がいた。子供の頃からお仕えしていた君(惟喬親王)が、出家しておしまいになった。男は正月には必ず、小野の里のお住まいにお伺いした。男は、宮仕えの身だったから、普段は伺うことはできなかったが、昔の心を失わずに、正月だけは参上した。業平のほかにも昔お仕えしていた人々、俗人や法師などが大勢集まったので、正月のことだから酒を賜った。


 その正月は、雪が天からこぼれるように降りしきって、一日中止まなかった。人々は皆酔って、誰言うとなく、「雪に降り込められて」という題で読み比べしようと言うことになった。男が、「思えども 身をし分けねば 目離れせぬ 雪の積もるぞ わが心なる」(宮仕えの身で この身を二つに分けることができませんので、お仕えしたいと思っていても、どうにもなりません。ところが今、目が離せないほど雪がどんどん降り積もって帰れなくなったのは、私の心が天に通じたのでしょう。望むところです。)と詠んだので、親王は大層感動なさって、お召し物を脱いで男に賜った。


<注釈>

【目離れせぬ】

 目を離せない。

【惟喬親王】(これたかのみこ)

 844~897年。55代文徳天皇の第一皇子。紀有常の妹・静子を母とする。藤原良房の娘・明子を母とする第四皇子・惟仁(これひと)親王(清和天皇)に56代の皇位を継がれ出家する。業平とは義理の従兄弟同士。紀有常は業平の舅に当たる。


<観賞>

 第十五話、「渚の院」(なぎさのいん 原典第八十二段)辺りから、歴史上の実在人物、惟喬親王、紀有常などが登場してきて、「伊勢物語」生成第三期の特徴が明瞭である。56代の皇位を継ぐ筈だった惟喬親王が、藤原氏の圧力での退けられ、生後僅か九ヶ月の惟仁親王が皇位を継ぐことになり、惟喬親王は不本意な一生を送り、遂には出家して、都から離れた小野の里に隠棲するという古代公家社会の典型的悲劇の一つのパターンを示している。

第二話 大東京史跡ロマンス その二 「からすの権兵衛」

 「権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる 三度に一度は追わずばなるまい ズンベラ ズンベラ」という俗謡があるが、この唄の主人公の権兵衛さんが実在の人と聞いて驚く人もいるかも知れない。目黒、世田谷、渋谷が入り組んでいる農大裏に、三角橋という、道路が三角形に交叉している所がある。その辺は、江戸時代、八代将軍・吉宗の頃、将軍家の鷹狩のお狩場であった。


 その頃、駒場野原の地守(じもり)だっのが、「三角の源さん」という人で、その源さんの友人だったのが唄の主人公の権兵衛さんで、権兵衛さんは、お狩場の網差(あみさし)なのである。網差と言えば立派なお役人である。だが、権兵衛さんほど風変わりなお役人はいなかった。朝から晩まで炉端に寝そべって鉈豆煙管を咥えている。回りから何か言われるまで動こうとしない。


 そんな権兵衛さんにも一つ取り柄があった。権兵衛さんは鳥飼いの天才で、無数の鳥たちを駒場野に集めた。それが将軍の眼に止まって、鷹狩の獲物の鳥たちを管理する網差の役を仰せつかった。普段は鶉や雉などに餌付けをして、鷹狩の時になると、将軍がなるべく獲物を沢山獲れるよう演出した。


 餌付けは、餌さ場に大豆などを蒔いて、鶉や雉などを引き寄せ、時にはこれを捕獲して飼い、鷹狩に備えるのであるが、鶉や雉などが来る前に、沢山の烏がやってきて、餌を食い散らかすので、無精な彼も三度に一度は烏を追い払う。だが烏という鳥は、中々横着でづうづうしく、追っ払っても直ぐまたやってくる。頬冠りに咥え煙管の権兵衛さんが、継ぎ剝ぎだらけの股引はいた百姓姿で烏を追う格好が面白いと江戸市中で評判となり、わざわざ見に来る人も出る始末。それが俗謡にも唄われ、「権兵衛踊り」まで出現し、大東京の世まで伝わることになった。

 

 <編者註>

【三角橋】

 昔、上目黒村三角という地名があり、そこに源さんという地守(土地を管理する役人)がいて「三角の源さん」と呼ばれていた。三角橋は、三角の外れという意味で、「三角端」が正しいという説もある。

【駒場野原】

 将軍家のお狩場になる前は、馬の放牧地だったようである。1716年頃から、将軍家の鷹狩のお狩場として、使用されるようになった。明治以降、砲兵隊の練兵場にされた。

【網差】

 権兵衛さんは、もともと役人の家柄だった訳ではなく、武州多摩郡津田村(現在の町田市)の百姓で、雉獲りの名人と言われた。その才能を見込まれ、お狩場の網差として将軍家に仕えた川井家の養子となり、代々川井権兵衛を名乗った。網差は、お狩場を管理し、将軍家の鷹狩の際、予め獲物を準備するなど、鷹狩を演出するのが役目であった。

【ズンベラ】

 初代権兵衛さんが亡くなったのが1736年。権兵衛さんが烏を追っていたのが1716年頃からの二十年。その間、権兵衛さんがお守りとして大切に持っていたのが「ずんべら石」。俗謡の囃し言葉「ズンベラ ズンベラ」というのはそこから来た。「ずんべら」というのは方言で、つるつるしたという意味。


第一話 大東京史跡ロマンス その1 「女塚」

 「伊勢物語の世界」の次のテーマを何にしようかと考えながら本棚の整理をしていたら、白石実三という人が書いた昭和11年発行の「新武蔵野物語」という本が出てきた。この本は私が荻窪に居を構まえた昭和25年頃、国木田独歩などを詠んで武蔵野に興味を持ち、少し齧ってみようかと思って求めた本であるが、一度も目を通さずに本棚に眠っていた本であった。その頃、私が「江戸名所図会」とか、「武蔵野歴史地理」とか、古書の全集を集める癖があって、いつか読もうと思って買った全集の中に混じったまま、忘れ去られていたのである。


 今初めて、「新武蔵野物語」頁を、パラパラめくってみると、すっかり忘れていた武蔵野への想いが思いだされて、今度こそ本当に読んでみようという気になった。そこで先ず、白石実三という人名を検索してみた。明治19年、群馬県生まれ。早稲田の英文科を出て、更に東京外語の露語科に学び、文学の道を志す。田山花袋の門下となり、小説家、随筆家として身を立て、武蔵野研究家としても知られたが、昭和12年、52歳で没した。


 ブログは白石実三の「新武蔵野物語」をテキストとし、そこから選んだ物語の粗筋を順番に「物語梗概」として紹介し、それにブロガーの「編者註」を加えて読者の理解の足しにするいうやりかたで進めようと思う。


第1話 大東京史跡ロマンス その1 「女塚(おんなづか)」


<物語梗概>

 14世紀、南北朝時代、武蔵野古戦場の一つ小手指原(こてさしがわら)の合戦は、何万という若い緋縅の鎧武者が、咲匂う梅花を兜にかざして戦った。南朝方はこの一戦で大敗し命運が尽きた。敗れた新田一族は、ちりぢりに、越後や陸奥へ落ちて行った。しかし、勇猛不逞の新田義興(義貞の次男 よしおき 当時22歳)は武蔵に留まり、再挙を謀っていた。彼は神出鬼没で、いくら討手を差し向けても、討取ることは出来なかった。


 そこで北朝方は、矢沢という男に命じて南朝方の味方を装い、義興の色好みに付け込んで、都から若くて美しい白拍子を連れて来させて、義興の枕席に侍らせた。白拍子の名は少将といった。義興はこの女の色香にすっかり溺れてしまった。少将も情のある女で、いつか義興を愛するようになった。


 やがて十五夜の夜が近づいた頃、矢沢を通じて北朝方から密命が届いた。「十五夜にうんと酒を飲ませ、酔ったところで義興を刺し殺せ」と。少将は悩みに悩んだ。しかし、愛が勝った。そして少将は、北朝方の企みを義興に打ち明け、義興を逃がした。だが、少将は見張っていた刺客に切られ、死体は掘割の中に捨てられた。月光の中に黒髪を乱したうら若い美女の死顔は、棲艶の限りであった。少将が葬られた跡は、いつか古墳となり、伝説と共に後の世に残され、武蔵野のロマンスとして語り継がれた。


<編者註>

 【女塚】

 今の大田区西蒲田地区に、むかし、女が葬られた古墳に由来する女塚村という農村があって、古い古墳とそれに纏わる伝説が残されていた。行政区画で、現在は女塚という地名はなくなっているが、女塚小学校とか女塚保育園とか、施設の名前で名残を留めている。古墳の在った所は、現在の女塚神社の場所で、女塚神社は地域の守護神として毎年7月25日、26日に最大な夏祭りが行われている。


 【小手指原の合戦】

 武蔵野合戦の古戦場の中で、小手指原の合戦というのは二回あった。一回目は、1333年、鎌倉を目指す新田義貞軍と、それを迎え撃つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場。始めは百五十騎ほどに過ぎなかった新田軍だが、夕刻には越後からの二千騎が加わり、鎌倉に近づいたころには二十万の大軍に膨れ上がったと太平記に書いてある。二回目の合戦は1352年。義貞が戦死した後、二男の義興が22歳で合戦に加わり、足利軍と戦ったが、新田方が敗走し、義興は武蔵野に留まった。小手指原は、現在、埼玉県所沢市北野の辺りで、鎌倉海道に通ずる要衝であった。近くに、西武池袋線の小手指駅がある。



第十六話「小野の里」(原典第八十三段)

<現代語訳>

 むかし、水無瀬(みなせ)の離宮によくお通いになられた惟喬親王(これたかのみこ)が、いつものように、狩にお出かけになられた際、右馬頭(うまのかみ)の翁がお伴をした。幾日か経って、親王は都の御殿へお帰りになった。翁は、御殿までお送りして行って、早くお暇しようと思っていたが、酒を下さり、褒美もやろうと仰っしゃって、中々帰そうとなさらない。


 右馬頭は早く帰りたくて、気が気でなく、そこで、「枕とて 草引き結ぶこともせじ 秋の夜とだに頼まれなくに」(今夜は枕として草を引き結ぶことするまい。秋の夜長を当にする季節でもないのですから、どうかお引き留め下さいますな。) と詠んだ。時は弥生(陰暦三月、今の五月頃)の末頃でした。親王はお休みにならず、とうとう夜を明かしてしまわれました。


 このように親しくお仕えしておりましたのに、思いもかけず、親王は出家してしまわれました。睦月(陰暦正月、今の二月頃)に、右馬頭の翁は、親王にお目にかかろうと思って、小野の里にある庵室へ参上したところ、そこは比叡山の麓なので、雪が大層深く積っている。雪を無理に踏み分けて、庵室にお伺いしてお顔を拝見すると、親王は、お独りでやるせなく、大層もの悲しいご様子でいらっしゃったので、少し長くお傍にいて、昔のことなどお話し申し上げました。



 このままお傍にお仕えしていたいと思いましたが、色々公務もあることですからそうもしておられず、夕暮れには都へ帰ることにして、「忘れては 夢かとぞ思う 思いきや 雪踏み分けて 君を見んとは」(ふと今の現実を忘れて夢ではないかと思います。こんなに深い雪を踏み分けてお目にかかろうとは思ってもいませんでした。)と詠んで泣く泣く帰ってきた。


<注釈>

【右馬頭の翁】

 業平のこと。当時は、四十歳を初老と呼びお祝をした。業平が右馬頭に就任したのは四十一歳のときで、惟喬親王が出家したのは、業平四十八歳の時。


【小野の里】

 今の京都の大原辺りで、比叡山降ろしの風が吹き、雪の多いところ。


【枕とて】

 草を枕にして寝ようと思って


【色々公務】

 右馬頭は宮中の行事を取り仕切る役目なので業務繁多であった。


<観賞>

 第十五話、第十六話に登場する惟喬親王の話は、十~十一世紀の頃、伊勢物語に追加された物語と考えられる。惟喬親王は、文徳天皇(827~58)が、紀静子(紀名虎の娘)に産ませた第一皇子で

あるが、皇位は第四皇子惟仁(これひと,文徳帝が藤原良房の娘明子に産ませた皇子)が継ぎ、惟喬親王は皇位継承の夢を断たれた。惟喬親王が出家した貞観十四年(872)頃は、応天門の変(866)の後で、藤原氏による伴氏(大伴氏)、紀氏などの有力氏族排斥の政争事件が多発した。

お染

 ある時、インターネットで「小唄」というテーマで検索していたら、「小唄千夜一夜・不漁老人」という記事が目に飛び込んできた。さっそくコピーしてみたら、なんと230頁にも及ぶ膨大な記事で、取り上げた小唄の数も200曲という大変な労作であった。内容は、大正二桁生まれの横町の御隠居が、同じ横町に住むおみきさんという女性と、がらっぱちの熊さんを相手に、一杯飲みながら、講釈付きで小唄を唄って聞かせるという趣向であった。


 私は、「小唄人生」というタイトルで、ブログ記事を書いているが、それ以来、この「小唄千夜一夜」を横に置いて、今度何を書こうかと迷ったりするとき、時々参考にさせて頂いている。最近また不漁老人さんが、ネットで「芝居小唄あれこれ」という記事を始められたので、これも興味深く拝見している。この記事は、「仮名手本忠臣蔵」から始まり、「新版歌祭文(お染、久松)」、「梅雨袖昔八丈(髪結新三)」、「恋娘昔八丈(お駒、才三)」と進行中で、これから未だ々々続くようである。


 不漁老人さんの「新版歌祭文」の記事の中で、がらっぱちの熊さんもよく知っている昭和時代を代表する流行歌手・東海林太郎のヒット曲・「野崎小唄」の話が出てくる。これは小唄と言っても所謂伝統的な小唄ではなく流行歌である。あの歌は、私の小唄友達で最も親しかった故S君がカラオケで良く唄っていた歌である。私も真似て唄ったが、不漁老人さんの講釈を聞くまでは、お染、久松の歌とはちっとも知らなかった。言われて初めてお染、久松の芝居の筋書すら知らないことに気がついた次第。そこで早速、戸板康二の「歌舞伎題名絵解き」と木村菊太郎の「芝居小唄」を紐解く。


 「お染、久松」は、歌舞伎に良く出る心中物の一つである。戸板康二の説によると、心中物のカップルの名前は、お七・吉三、小春・冶兵衛、梅川・忠兵衛、お半・長衛門、お初・徳兵衛、おさん・茂兵衛など、女の名前が先にくることが多い。これは、女の方が主役で、芝居のクライマックスで最も大切な「口説き」を演ずるのが女だからであるという。


 不漁老人さんの記事のお蔭で、小唄春日派の家元・春日とよさんの作曲の、お染、久松を唄った「お染」という曲があることを知った。この曲はあまり唄われていないが、不漁老人さんの記事を読ませていただいたご縁で、来年2月22日、内幸町ホールで催される「三味線小曲の世界」に出演の際唄ってみようと思っている。歌詞は木村富子の作で、「恋の緋鹿子(ひがのこ)お染の帯が 船にしだれて物思いよしないわしゆえお光さ案の縁を切らせたお憎しみ 堪忍して下しゃんせ 土手にゃ久松 籠の鳥 逢いたさ見たさの山川を さっと一刷毛 夕霞」。これに、同じ春日とよさんの曲で、「言いたいことも聞きたさも 目と目にこもる千万無量」を付けて唄うこともある。


 芝居の粗筋は次の通り。お染は、大阪河原町の油屋という質屋の一人娘。久松は、大阪府野崎村の出で、油家で丁稚奉公。これがいつかお染と人目を忍ぶ中となる。しかし、お染も年頃、山家屋という商家への嫁入り話が決まり、久松は仕事上の不始末で故郷へ帰させられる。久松の父・久作は、久松の幼い時からの許嫁・お光と祝言を上げさせようとするが、久松恋しのお染が観音詣でにかこつけて、久松を追ってくる。久松とお染の死んでも別れられない恋を知ったお光は出家して尼となるが、お光の心使いもむなしくお染と久松は心中して果てる。


 「恋の緋鹿子」の小唄は、久松を追って来たお染が、母親・お常の計らいで、一旦引き裂かれ、お染は船に乗せられ、久松は土手の上を駕籠で、別れ別れで舞台から消えるところを唄たっているが、このところを義太夫で聴くと、まさにクライマxクスで、太棹三味線の撥捌きに乗って、浄瑠璃が「さらばさらばも遠ざかる思い合うたる恋仲も義理の柵(しがらみ)情けのかせ」と唄い上げる、三味線も浄瑠璃も聞かせ所で、小唄の場合もここの所は心して歌うことが必要。