第一話 大東京史跡ロマンス その1 「女塚」 | 八海老人日記

第一話 大東京史跡ロマンス その1 「女塚」

 「伊勢物語の世界」の次のテーマを何にしようかと考えながら本棚の整理をしていたら、白石実三という人が書いた昭和11年発行の「新武蔵野物語」という本が出てきた。この本は私が荻窪に居を構まえた昭和25年頃、国木田独歩などを詠んで武蔵野に興味を持ち、少し齧ってみようかと思って求めた本であるが、一度も目を通さずに本棚に眠っていた本であった。その頃、私が「江戸名所図会」とか、「武蔵野歴史地理」とか、古書の全集を集める癖があって、いつか読もうと思って買った全集の中に混じったまま、忘れ去られていたのである。


 今初めて、「新武蔵野物語」頁を、パラパラめくってみると、すっかり忘れていた武蔵野への想いが思いだされて、今度こそ本当に読んでみようという気になった。そこで先ず、白石実三という人名を検索してみた。明治19年、群馬県生まれ。早稲田の英文科を出て、更に東京外語の露語科に学び、文学の道を志す。田山花袋の門下となり、小説家、随筆家として身を立て、武蔵野研究家としても知られたが、昭和12年、52歳で没した。


 ブログは白石実三の「新武蔵野物語」をテキストとし、そこから選んだ物語の粗筋を順番に「物語梗概」として紹介し、それにブロガーの「編者註」を加えて読者の理解の足しにするいうやりかたで進めようと思う。


第1話 大東京史跡ロマンス その1 「女塚(おんなづか)」


<物語梗概>

 14世紀、南北朝時代、武蔵野古戦場の一つ小手指原(こてさしがわら)の合戦は、何万という若い緋縅の鎧武者が、咲匂う梅花を兜にかざして戦った。南朝方はこの一戦で大敗し命運が尽きた。敗れた新田一族は、ちりぢりに、越後や陸奥へ落ちて行った。しかし、勇猛不逞の新田義興(義貞の次男 よしおき 当時22歳)は武蔵に留まり、再挙を謀っていた。彼は神出鬼没で、いくら討手を差し向けても、討取ることは出来なかった。


 そこで北朝方は、矢沢という男に命じて南朝方の味方を装い、義興の色好みに付け込んで、都から若くて美しい白拍子を連れて来させて、義興の枕席に侍らせた。白拍子の名は少将といった。義興はこの女の色香にすっかり溺れてしまった。少将も情のある女で、いつか義興を愛するようになった。


 やがて十五夜の夜が近づいた頃、矢沢を通じて北朝方から密命が届いた。「十五夜にうんと酒を飲ませ、酔ったところで義興を刺し殺せ」と。少将は悩みに悩んだ。しかし、愛が勝った。そして少将は、北朝方の企みを義興に打ち明け、義興を逃がした。だが、少将は見張っていた刺客に切られ、死体は掘割の中に捨てられた。月光の中に黒髪を乱したうら若い美女の死顔は、棲艶の限りであった。少将が葬られた跡は、いつか古墳となり、伝説と共に後の世に残され、武蔵野のロマンスとして語り継がれた。


<編者註>

 【女塚】

 今の大田区西蒲田地区に、むかし、女が葬られた古墳に由来する女塚村という農村があって、古い古墳とそれに纏わる伝説が残されていた。行政区画で、現在は女塚という地名はなくなっているが、女塚小学校とか女塚保育園とか、施設の名前で名残を留めている。古墳の在った所は、現在の女塚神社の場所で、女塚神社は地域の守護神として毎年7月25日、26日に最大な夏祭りが行われている。


 【小手指原の合戦】

 武蔵野合戦の古戦場の中で、小手指原の合戦というのは二回あった。一回目は、1333年、鎌倉を目指す新田義貞軍と、それを迎え撃つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場。始めは百五十騎ほどに過ぎなかった新田軍だが、夕刻には越後からの二千騎が加わり、鎌倉に近づいたころには二十万の大軍に膨れ上がったと太平記に書いてある。二回目の合戦は1352年。義貞が戦死した後、二男の義興が22歳で合戦に加わり、足利軍と戦ったが、新田方が敗走し、義興は武蔵野に留まった。小手指原は、現在、埼玉県所沢市北野の辺りで、鎌倉海道に通ずる要衝であった。近くに、西武池袋線の小手指駅がある。