八海老人日記 -4ページ目

神田福丸さんとの出逢い

 私が未だ小唄を始める前、と言えば昭和四十年代前半、私はその頃、或る化学会社の経理部に勤務していた。常務取締役経理部長のM氏は、社長の片腕として、社内では幅を利かせていたが、或る日、仕事一辺倒の私達若手社員に、少し遊ぶことも教えてやろうと言う粋な親心で、神田明神下の何とか言う茶屋へ連れて行ってくれた。そのとき呼んでくれた若くて美人の芸者が、神田生まれで神田育ちの福丸姐さんだったのである。


 福丸さんは、三味線を弾きながら端唄など唄い、連れの芸者に踊ってもらったが、端唄も小唄も知らない私達に、私たちでも唄える唄を教えてくれた。それは石川啄木の「東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹と戯る」という唄で、それを今でもはっきりと憶えているのである。


 そのときの福丸姐さんの印象は、若くて眩しい位綺麗で、いい声で唄が上手くて、その上客には親切、という素敵なものだったが、M氏の招待も一度きりだったし、端唄も小唄も、その頃の私にはまるで興味が無かったから、いつしか福丸さんのことも忘れてしまった。それから十年以上経って、再び福丸さんにお遭いすることになるのだから、縁とは不思議なもの。


 その後会社も、石油化学コンビナートの建設で、お役人やら、銀行のお偉方などとお付き合いする機会が多くなり、所謂、三ゴ時代で、ゴルフ、囲碁、小唄がサラリーマンの必須科目であった。会社の中に小唄同好会というのがあって、小唄の師匠が赤坂の会社の寮へ週一回教えに来て、十人ほどのメンバーが皆熱心に小唄の稽古をしていた。その頃の私は、昭和32年に無理な発声が原因で声帯を損傷して以来約十年間、唄うことからと遠ざかっている最中であった。


 私が小唄をやるようになった切っ掛けは、その頃、飲み友達のK氏に頼まれたことからである。或る日、K氏が私の所へやって来て、お願いがあると言う。何かと思ったら、自分が今度大阪へ転勤することになり、小唄同好会のメンバーが減るから

誰か後釜を見付けて連れて来いと上司から言われた。就いては後でやめてもよいから、取りあえず後釜になって欲しいということであった。


 こんな訳で、K氏の後釜として、興味半分で、小唄を習うことになったが、最初は声も出ず苦労した。それでも、ごこちないながら、三年間に二十曲ほど上げた。そして今度は私が名古屋へ転勤する羽目になった。小唄同好会のメンバーが神楽坂の料亭で、盛大に送別会をしてくれた。


 私が、本当に小唄にのめり込んでしまったのは、クラスメートのS氏からの感化による。名古屋勤務から三年も経たない内に、東京帰還を命ぜられ、合弁会社の財務を担当することになった。東京に戻ってすぐS氏と仲良くなったが、S氏は私よりかなり前から小唄を嗜んでおり、彼と知り合ってから、よく新橋や銀座界隈を飲み歩いた。それから銀座八丁目の「バー小唄」へ出入りするようになり、そこのママに二人ともよく可愛がられた。


 「バー小唄」には、福丸さんも、時々見えていた。そしてそこの常連によるゴルフ大会などにもよく参加しておられた。いつか「バー小唄」でお目にかかったとき、M氏のことを憶えていますかと伺ったら、憶えていますと答えられた。そのM氏も癌で亡くなり、「バー小唄」のママもあの世に行ってしまい、「バー小唄」も消えてしまったが、福丸さんのことは、忘れたことが無かった。そして今年三月十日、内幸町ホールで行なわれた、千代田区主催の「邦楽の集い」の楽屋で、図らずも福丸さんにお目にかかり、ご挨拶申し上げたのが切っ掛けで、またご縁が繫がることになった次第。



 

第九話「梓弓」(原典第二十四段)

<現代語訳>

 むかし、ある男が、片田舎に住んでいた。その男は、宮仕えするためと云って、女と別れを惜しんで出て行ったまま、三年間も帰ってこなかったので、女は只管待ち侘びていた。その頃、大層熱心に言い寄ってきた男に、女は「今夜逢いましょう」と約束した。とこが、丁度その夜、元の男が帰ってきた。そして元の男が、この戸をあけてくれと云って叩いたが女は開けないで、歌を詠んで差し出した。


 「あらたまの年の三年を待ち侘びて ただ今宵こそ新枕すれ」(三年の間、貴方を待ち侘びて来ましたが、貴方は帰って来なかった。三年経った今夜、他の男と新枕を交わすことになりました)。そう言われたので元の男は、「梓(あずさ)弓真弓槻弓年を経て、我がせし如とうるわしみせよ」(色々なことがあったが、私が長年貴女を愛して来たように、貴女もその男を愛してやりなさい)、と云って立ち去ろうとした。


 そこで女は、「梓弓引けど引かねど昔より 心は君に寄りにしものを」(たとえ貴方のお心はどうあろうと 昔から私の心は、貴方に寄り添っていました)と言ったが男は帰って行ってしまった。


 女は、大層悲しくて、後を追ったが追いつけず、清水のあるところに斃れてしまった。そしてそこにあった岩に、指からの血で書き付けた。「あい思わで離(な)れぬる人をとどめかね 我が身は今ぞ消え果てぬめり」(私が思うほど思ってくれないで離なれて行ってしまった人を引き止めることが出来なくて わが身は今や消え果てようとしています)。そう書いてその場で虚しくなってしまった。


<注釈>

【梓弓】(あずさゆみ)

 梓の木で作った丸木の弓で、弾力があり、強く弓返り(ゆがえり)するところから、「帰る」ということに掛けたと解釈される(八海老人説)。「弓返り」とは、弓術用語で、強い弓を射た時、弓の弦が反動で反対側へ返る現象。

【宮仕え】

 宮中に出仕することであるが、貴族の家来として使えることも「宮仕え」と言った。

【三年】

 律令の中の戸令(戸籍)制度で、子が無い夫が三年、子がある夫は五年、子が無い夫の失踪は二年、子がある夫の失踪は三年、その間現れないときは、妻は新しく結婚してもよいという条文があった。伊勢物語第二十四段の場合は、女は咎められない。

【新枕】 

 結婚の初夜を迎えること。

【うるわしむ】

 美しむで、美しく愛し合うこと。


<鑑賞>

 夫が家を出て三年間音信不通なら、妻は他の男と結婚してもよいというのが、当時の法律。妻が他の男と結婚して、今夜初夜を迎えようという時に、期限ぎりぎりに

元の男が帰ってきて、そこでドラマが発生する。昔も今も変わらない構図である。




田村弥笑さんの見台開きに出演

 6月21日(日)、雨の中、湘南小唄愛好会主催、隅田川屋形船小唄会に参加させて頂いた。熱海から、和乙乃師匠と芸妓の関美姐さんに来て頂いて、関美さんの小唄ぶり13番を全部師匠に弾いて頂いた。さぞお疲れになったであろうとお察し申し上げます。午後四時前に解散となり、帰りかけたところ、邦楽の友・守谷社長に呼び止められ、目賀田氏他と共に二次会という形で、近くの神谷バーの二階へ上った。


 その際、守谷氏から、十月三日(土)、田村弥笑さんという方が、日本橋劇場で見台開きをされるので、是非応援をして欲しいという依頼があった。かって田村、蓼、春日、堀と小唄の四大流派のトップとして、清元お葉を始祖とする江戸小唄の伝統を継ぎ、最も古い歴史を誇る田村派が、今昔の感ありで、蓼や春日など他の流派に比べると、些か元気がないという。


 昔のことを思い出すと、昭和五十年、ナゴチュンから東京に戻って来た私に、銀座の料亭一好(いちよし)のママ(05-11-07八海老人日記参照)を紹介してくれたのは、親友で小唄の友であったS君であった。その頃一好のママは、小唄に夢中で、同じ渋谷の円山町に住む田村幸代師匠の弟子で、料亭を貸切にして小唄の会をやり、それに呼んでくれたり、湯ヶ原の船越旅館での田村幸代一門の新年会などに連れて行ってくれたりした。


 私も当時、小唄を始めて十年位で、病膏盲、すっかり小唄の世界にのめり込んでいた。小唄の上手なドイツ人・ドクター・バロンを一好のママに紹介したり、S君に誘われて、大森の鷲会館で催される鶴村貞敏師匠の会に出させてもらったり、兎に角、S君と共に小唄を唄うことが楽しくて仕方が無かった。


 それが今では、田村幸代師匠が亡くなられて昨年が確か二十三回忌で、一好のママも数年前すい臓がんで亡くなり、親友だったS君も十年前、肝臓がんで死んだ、みんなあの世へ旅立って行ってしまった。小唄人生というテーマで、昔のことを思い出しながらブログを綴ることが、今の私の生き甲斐の一つとなっている。


 守谷社長からの依頼は、無論、二つ返事で引き受けた。ついては、二十年前、田村幸代師匠と仲良しで私の憧れの的だった田村派のあるお師匠さんが、今でも田村会の現役でいられるので、その方に糸方をお願いしたいと思って、つてを頼ってお伺いしたら、脚の故障を理由に断られたのは残念であった。


 糸方の代役を、江戸小唄友の会や天声会でお世話になっている蓼静奈美師匠にお願いしたら快く引き受けて頂いた。出し物は、昔、田村幸代師匠から貰ったテープの中から、「凍る夜」と「座敷や引け過ぎ」を選び、故人の追悼と、新しい田村派のホープ・田村弥笑さんの今後のご活躍を祈って、十月三日に唄わせて頂く。

第八話「筒井筒」(原典第二十三段)

<現代語訳>

 むかし、隣り合った地方官の子供同士の男女が、いつも筒井戸の傍で遊んでいたが、やがて二人とも大人になって、お互いに気恥ずかしくなり、顔を合わせることも無くなった。然し男は、どうしてもこの女を妻にしたいと思った。女もこの男と思っていたから、親が他へ縁付けようとしても言うことを聞かなかった。


 そんなある日、隣の男からこんな歌を送ってきた。「筒井筒いづつにかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹見ざる間に」(幼い頃、あの筒井戸と背比べして遊んだが、貴女と逢わないでいる間に私の背丈もすっかり伸びてしまった)。


 これに対し女が歌を返した。「比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」(貴方と長さを比べあってきた私の振り分け髪も もう肩を過ぎるまで伸びてしまいました 貴方以外の誰にこの髪を上げましょうか)。こんな風に詠み交わしてとうとう本意を遂げて結婚してしまった。


 こうして何年か経つうちに、女の親が亡くなり、暮らしも頼りなくなってきた。男も、いつまでも、妻と一緒に不本意な生活を続けるわけにも行かず、河内の高安という所に別の女が出来てしまった。元の女も別に厭な顔もせず男を出してやったので、男は、女に他の男が出来たのかと疑った。


 或る時、庭の植え込みの中に隠れて、河内へ行った振りをしていると、元の女は、大層美しく化粧をして、「風吹けば沖つ白波竜田山 夜半にや君が独り越ゆらむ」(あの寂しい竜田山を、真夜中、貴方が独りで越えるのは心配だ)と詠んだので、男はそれを聞いて愛おしさに胸が一杯になり、河内へ行こうともしなくなった。


<注釈>

【筒井筒】

 伊勢物語の話から転化して、幼馴染の男女が、愛し合い結ばれることを、筒井筒と言うようになった。室町時代、足利義満に仕えた偉大な能役者で能作者でもあった世阿弥が、伊勢物語の筒井筒の話を脚色し、古今の名曲「井筒」を作った。

【当時の結婚制度】

 当時の貴族の結婚制度は、婿取り婚、婿入り婚、招婿婚などど言われ、男が女の家に三日間通うと婚姻が成立し、女の親の地位や財力が男の将来を左右した。女の親が早く亡くなると、男は、生活の基盤も、将来の希望も失うことになるので、また別の有力な親を持つ女の所へ通う事になる。そういう事が制度として認められた。


<鑑賞>

 筒井筒で、幼馴染同士が思いを遂げて結婚しても、人の運命は儚いもの、この話のように、後ろ盾の親を失った女の許へ、男が再び戻ってくることは、現実問題としては、殆どあり得ないことであった。伊勢物語二十三段の話はあくまでも寓話的な物語で、世阿弥の「井筒」では女の霊が、二度と帰ることの無い夫を待ち続ける女の悲哀を演じている。




恋しき人

 9月16日(水)、南青山会館で催される第151回江戸小唄友の会三桜会の出し物は「恋しき人」に何か短いものを添えて二題にしたらどう、と、三桜会でいつも私の糸方を勤めて頂いている鶴村寿々紅さんからのおすすめ。私も、かねがねこの唄を一度唄ってみたいと思っていたので、いい機会だと、二つ返事で賛成した。


 木村菊太郎氏の名著「小唄鑑賞」の109頁に、この小唄の詳しい解説が載っている。この唄が作られたのは明治の終り頃で、中洲の待合辰巳屋の女将お雛を偲んで作られた追悼小唄である。通説では、この小唄は、お雛をこの上なく愛した軍人政治家の山田顕義(あきよし)の作詞で、曲付けは一中節の菅野さな(二世宮園千之)であるとされているが、木村氏はこれに疑問を呈している。


 というのは、木村氏の調べでは、お雛を愛した山田顕義が没したのが明治二十五年、作曲した菅野さなが亡くなったのが明治四十二年一月でお雛が亡くなる十ヶ月前、お雛が亡くなったのが明治四十二年十一月だから、お雛が亡くなったときは、山田顕義も菅野さなも、もうこの世にいなかったので通説は誤りであるという訳。


 真相は、明治も終りの頃、作詞作曲家の平岡吟舟や作詞家の三村周など明治の小唄愛好家達が、お雛の命日に集まった時、江戸小唄の上手だった若かりしお雛を思い出し、その場でみんなでお雛の追慕小唄を作詞作曲して出来上がった小唄であるらしい。


 山田顕義(1844~1892・天保十五年~明治二十五年)は、山口県萩の生まれで、十四歳にして吉田松陰に師事し、長州藩が幕府と争った攘夷戦争では、高杉晋作や久坂玄瑞らと行動を共にした。大村益次郎から洋式兵法を学び、戊辰戦争の際は参謀として東北に転戦、官軍を勝利に導いた。明治政府に仕え、岩倉使節団に随行し欧米を視察した。第一次伊藤内閣では司法大臣に起用された。教育を重視し、日本大学、國學院大學を創立した。


 お雛(1857~1909・安政4年~明治42年)は、浅草生まれの浅草育ち。本名を加藤雛子といい、吉原の引手茶屋・桐佐の養女となり、芸妓の修行は、河東節を山彦秀次郎に仕込まれ、江戸小唄も上手で、その上、文学を好み、和歌も佐々木信綱に師事、更に又、キリスト教の信者でもあった。当時としては先端を行く異色の芸妓で、しかも、長谷川時雨の「明治美女伝」にも載せられる美形でもあったので、

攘夷戦争や戊辰戦争で名を馳せた軍人上がりの剛毅な顕官の心を獲止め、寵愛を得たとしても不思議は無い。


 山田顕義から愛されたお雛は、やがて中洲に辰巳屋という待合を持たせて貰い、そこの女将に収まったが、顕官の後ろ盾で、岩崎弥之助、馬越恭平、郷誠之助などの豪商や平岡吟舟、三村周などの江戸小唄の愛好家たちや諸芸人達ガ集まり賑わった。お雛としては、この頃が一番幸せな時期であったと思われる。 


 明治二十五年十一月、枢密顧問官、伯爵、山田顕義は、兵庫県生、野銀山視察中に急死した。享年49歳であった。この時、お雛は35歳の女盛り。山田の秘書であった栗塚省吾に頼ったが、省吾の妻に憎まれ、お雛の生活の軌道も狂い始める。


 明治四十二年、お雛は川上貞奴の経営する女優養成所の副所長の職を得て、欧米における女優養成の実態を視察するため渡米し、ボストンのホテルでガス事故により客死した。享年五十三歳であった。


 平岡吟舟たちが合作で作ったとされるお雛追悼の小唄「恋しき人」の歌詞は、「恋しき人はよいさよいさ世の中に 今は昔の節の間も この君ならで他所ほかに 黄昏白む葛飾の 月に明かさん雛の宿」。


 「恋しき人」と「この君」はお雛を指す。「節の間」は、新古今集の和歌「難波潟短き芦の節の間・・・」からとった文句で、前段は「今は昔の思い出になってしまったが、ほんの短い間でさえ、恋しい貴女以外の人と過ごすことは出来なかった。」という意味で、後段は、「黄昏が迫る頃、月が出て明るくなった葛飾のお雛の宿で、貴女は月を友として夜を明かすことでしょう」という意味である。全体が上品な曲付けで、「この君ならで」の所は河東節である。

第七話「紀有常」(原典第16段)

 昔、紀有常という人物がいた。三代の帝に仕えて時めいていたが、その内に時勢が変わり、普通の人よりも落ちぶれてしまった。然し人柄は、心が清らかで、高雅なことを好み、常人とは違って、貧しい暮らしでいても昔の心のままで、暮らし向きのことなど一向に構わなかった。


 そのため長年連れ添ってきた妻は、次第に夫が疎ましくなって床も共にしなくなり、遂には尼になって、先に尼になっていた姉と一緒に住むことになった。有常は是まで、本当にそれほど仲睦まじいということは無かったにしても、妻がこれを最後に出て行くのを見て、さすがに可哀相に思った。然し貧しいので何一つしてやれない。それを心苦しく思って親しい友人に手紙を書いた。


 そしてその手紙の最後に、「手を折りて 相見しことを数ふれば 十といいつつ 四つは経にけり」(指を折って、夫婦として暮らしてきた年数を数えると、もう四十年も

経っていることだ)と詠んでやった。友人はその手紙を見て大層気の毒に思い、有常の妻のために夜具を贈ってやって、「歳だにも 十とて四つは経にけるを 幾度君を頼み来ぬかな」(四十年も経たというから、その間に何度も貴方を頼りにしてきたことだろう)と詠んでやった。


 友人の厚意こ有常は感動して、「これやこの 天の羽衣むべしこそ 君が御けしとたてまつりけれ」(これがあの天の羽衣というものでしたか。それでこそ 尊い身分の貴方のお召し物だったのですね)と詠んだが、更に喜びに耐えかねて又一首。「秋や来る 露やまごうと思うまで あるは涙の降るにやありける」(秋が来たのか 露がこんなに降りているようだと思ったら、私の袖が涙で濡れているのでした。)


 <注釈>

【紀有常】

 実在した歴史上の人物(815~877)。妹が文徳帝に仕え、第一皇子・惟喬親王(これたかのみこ)を生んだが、文徳帝には藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)に生ませた第四皇子・惟仁親王(これひとのみこ)があり、二人の皇子が皇位を争い、藤原氏を外戚に持つ惟仁親王が勝利し清和帝となzつた。政争に敗れた有常は、仁明、文徳、清和と三帝に仕えながら不遇な生涯を過ごした。

【夜具】

 今の布団の類とは異なり、通常の衣類に近く、絹製で綿なども使用しており、大型で暖かい召し物。

【天の羽衣】(あめのはごろも)

 天女がこれを着て月の世界まで舞い上がるという羽衣伝説に由来する。

【御けし】

 『御』は尊敬を表す接頭語。「けし」は古語で「着る」の尊敬語。

【文徳帝】

第五十五代。827~858年。仁明帝の皇子で母は藤原良房の妹・順子。在位中は良房権勢を誇る。


<鑑賞>

 この第七話「紀有常」(原典第十六段)は、突然、例外的に歴史上実在の人物が登場する。これは、私のブログ09・03.07の「伊勢物語の世界」の「はじめに」で述べたように、伊勢物語の生成過程の三段階で、後から付け加えられた話で、初期の幻想的物語から、後期の実在人物を巡る歴史的エピsp-ドなどが加えられるようになったものである。

第六話「くたかけ」(原典第十四段)

 むかしある男が、陸奥の国まで当てもなく行き着いてしまった。その国の女が、京男は珍しいとでも思ったのだろうか、只管その男に恋焦がれた。さて、その女が詠んだ歌が、「なかなかに 恋に死なずは桑子にぞ なるべかりける玉の緒ばかり」(なまじ恋焦がれて死んでしまうよりは、蚕になったほうがましです。蚕はほんの短い命でも)と、いかにも田舎じみた歌であった。


 おとこは、さすがに哀れと思って、女の許へ行って寝てやった。そして未だ夜も明けない内に女の家を出た。すると女は、「夜も明けば、水桶(きつ)にはめなでくたかけの まだきに鳴きて夫なをやりつる」(夜が明けたら、あの鶏め、水桶へぶち込んでやろう。未だ夜もあけないのに、あんなに鳴いてあの人を帰してしまったんだもの)と詠んだ。


 そのあと、男は都へ帰るのだと言って、「栗原の、あねはの松の人ならば 都のつとにいざといわましを」(あの栗原のあねはの松がもし人であったなら、都への土産に、さあ一緒に行こうといいたいところだが・・・・)と詠んだ。ところが女は、歌の寓意(あんたみたいな田舎っぺじゃどうしようもない)が分からずに、「あの人は私のことを思っていてくれるらしい」と喜んだという。


<注釈>

【くたかけ】

 「くだかけ」ともいう。古語で鶏の蔑称。

【陸奥の国】

 東北地方の旧名。蝦夷地との境界で、鎮守府が置かれた。

【桑子】

 天然の繭。カイコよりやや小型で淡黄色の繭を作る。

【玉の緒】

 ①玉を貫く紐。

 ②期間の短いことのたとえ。

 本文のばあいは、ほんの短い命という意味。

【夫な】(せな)

 愛しい男性を指す言葉。

【栗原のあねはの松】

 今の宮城県栗原市姉葉に、今でも植え継がれている松。女官として宮中に赴く途中の美しい娘がここで病のため亡くなり、その妹がここを訪れて松を植えたという伝説が残っている。、


<鑑賞>

 この第六話「くたかけ」(原典第十四段)は、ある男が、田舎女を弄んだ話であるが、勿論ある男とは、業平自身のことで、京男に憧れる田舎豪族の娘を、如何にも教養のないメスとしか見ていない業平の女性観が顕わである。

第五話「たのむの雁」(原典第十段)

 <現代語訳>

 昔、ある男が、武蔵の国までさすらい歩いて行った。 そしてその国に住んでいる娘に求婚した。娘の父は、他の人に嫁がせようと云ったのを、娘の母は、身分の高い人が気に入ったのだった。娘の父は、並みの素性の人であったが、娘の母は藤原氏の血筋だった。それで高貴な人に嫁がせようと思った訳である。


 一家の住んでいる所が、入間郡三吉野という所であった。そして娘の母が、娘の婿にと望んだ男に、歌を詠んでよこした。その歌は、「三吉野の たのむの雁もひたぶるに 君が方にぞ寄ると鳴くなる」(三吉野の田の面に降りている雁でさえも 只管貴方に慕い寄るように鳴いています。娘も同じ気持ちで貴方を慕っておりますのよ。)


 婿に望まれた男の返歌。「我が方に 寄ると鳴くなる三吉野の たのむの雁を いつか忘れむ」(私の方に慕い寄る気持ちで鳴いている三吉野の田の面の雁を 決して忘れることはないでしょう)、この男は、他所の国に出かけてまでも、こうしたことが止まないのだった。


<注釈>

【たのむの雁】

 「たのむ」は「田の面」から転じた古語で、和歌に多く使われた。

【武蔵の国】

 (再掲) 今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部を含む地域。

【並みの素性の人】

 官位のない人。 宮中に仕えるか、又は中央から派遣される地方官であれば、低くても官位があるが、地方の豪族などは、財力はあっても官位とは無縁であった。


<鑑賞>

 この男(実は業平)のように、古代の結婚は、婿入り婚(通い婚)が普通であった。男は、いい女がいて、両親の身分も財産も申し分がないと女に求婚(呼ばひ)して、女が気に入ってくれれば、女の許に通い、両親に認められると妻の家で暮らすことになる。業平という男はこのようにしていった先々で女に恋をして歩いた。というのが業平の文学的空想であったかも知れない。


「梅雨の月」、「羽織着せかけ」

        

       

       八海老人日記

         (遊里の女)


 小唄「梅雨の月」の歌詞は、俳人、作家、劇作家にして放蕩大家の久保田万太郎(明治22年~昭和38年)の作で、「梅雨の月 雲間がくれにさすかげの 見え透く嘘の糠雨や 糠喜びはさせぬもの」。昭和三十年代の作。


 「梅雨の月」とは、梅雨中に見られる珍しいまどかな月の姿で、今宵は晴れるかと思わせるが、すぐ糠を撒いたようなような雨が降ってきて、期待は糠喜びに終わってしまうという、万太郎ならではの名作詞。遊里の女が男に見せる笑顔を見て、男がその気になると、女はすっとはぐらかしてしまう。そんな風景が想像される。


 小唄評論家・木村菊太郎氏は、著書「小唄鑑賞」の中で、この小唄を、男を弄ぶ女を皮肉った唄と評しているが、八海老人に言わせると、より切実で、この小唄は、女に振られた男の、女に対する恨み節で、単なる皮肉以上の思いが込められていると思いたい。したがって山田抄太郎の曲付けは、最初は古典的な感じで唄いだすが、最後の「糠喜びはさせぬもの」のフレーズには、かなりの感情がぶっ付けられているような気がする。


 万太郎は、遊里の女との初恋に失恋し、一生その女が忘れられず、74歳で事故(梅原龍三郎邸のパーテイで赤貝の鮨が喉に詰まり窒息死)で亡くなるまで、六人も奥さん又は愛人を取り替えた。


 「羽織着せかけ」は、幕末の頃、上方で流行った「羽織着せても裃(かみしも)着ても どこか粋なと人が言う ほんにお前は罪な人」という唄が、江戸に入って端歌となり、更に明治に至って江戸小唄となったと、木村氏の「小唄鑑賞」に出ていた。江戸小唄になってからの替え歌は幾つもあるが、「羽織着せかけ」もその内の一つ。


「羽織着せかけ行く先尋ね 拗ねて箪笥を背中(せな)で閉め ほんにあなたは罪な人」。他の女の所へ行くのではないかと疑いながら、すねて箪笥を背中で閉める女房の切なさを唄っている。ちょっとの焼餅も女の魅力。なお、古い小唄本には、「行く先尋ね」の所が「行き先」となっており、物知りに聞いたら、「行く先」は標準語で、「行き先」は江戸弁だと言う。それで私は「行き先」と唄うことにした。

(第四話)東下りーその二 不二の山、隅田川

       

         

       八海老人日記

       (東下りー不二の山)

 

<現代語訳>

 駿河の国の富士山を見ると、五月の末だというのに、雪が大層白く降り積もっている。そこで一首詠んだ。「時知らぬ山は不二の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらん」(時知らずの山は富士山だ。今をいつと思って、鹿の背の白い斑点のような雪が降り積もっているのろうか)。その山は、都に例えて言うと、比叡山を二十ばかり積み重ねた位の高さで、塩尻のような形をしている。、


 なお旅を続けて行くと、武蔵の国と下総の国の境い目に大層大きな川があり、これを隅田川という。その川の岸辺に一行が足を止めて、遥かな旅路を思いやると、なんと限りなく遠い所へ来てしまった気がして、嘆きが尽きない。渡守が、「はやく舟に乗ってくれ、日も暮れるから。」と急き立てるので、舟に乗ろうとするにつけても、やはり皆はなんとも侘しい。誰も皆、都に思う人がいない訳でもないのだ。そのような折も折、白い鳥で、嘴と足が赤い、鴫(しぎ)位の大きさの鳥が、水の上で肴を食べながら遊んでいる。都では見たことのない鳥だったから、渡守に鳥の名を尋ねたところ、これは都鳥だというのを聞いて、「名にし負はば いざこと問わん都鳥 我が思う人 ありやなしやと」(都鳥よ その名に背かない鳥ならば 今尋ねたい。都で我が思う人が無事かどうかを)と詠んだら、この舟に乗り合わせた人は、皆泣いた。


<注釈>

【駿河の国】

 東海道十五ケ国の一つで、今の静岡県の中央部。

【不二の山】

 富士と書くのは現代風で、昔は不二又は不尽と書いた。

【比叡山】

 大津市と京都市の間にある高さ848mの山。平安時代、最澄がこの山で修行して天台宗を開き、延暦寺を建てた。富士山が比叡山の二十倍の高さとは大げさ過ぎ。

【塩尻】

 塩田での製塩作業の最後で、円錐形に積み上げられた塩を含んだ砂の山。

【武蔵の国】

 今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部を含む地域。

【下総の国】

 千葉県北部と茨城県南部を含む地域。

【隅田川】

 現在、東京都と千葉県の間を流れる川は江戸川で、業平が川を間違えたという説もあるが、業平のいた頃、隅田川は武蔵と下総の間に有ったかも知れない。なお、業平と渡守のやり取りは、室町時代の観世元雅により、謡曲「隅田川」に採り入れられ、人買いに幼いわが子・梅若丸を浚われ狂った母の話に脚色された。

【都鳥】

 ミヤコドリは、ミヤコドリ科の鳥で、頭や背中は黒、腹や翼は白、翼長26cmの渡り鳥。シベリアで繁殖する。昔の人が都鳥と言ったのは嘴の赤いユリカモメ(カモメ科)のことらしい。


<鑑賞>

 在原業平は、実在の人物で、色好みの平安貴族であるが、二条の后(きさき、高子のこと)との情事が暴露された後、十三年間、空白の履歴がある。その間、京都東山の藤原良房邸に監禁されていたという説があり、「東下り」もそこから出たもので、昔の貴族は、滅多に旅などしないという。富士の山の話も、稲作の農民が、五月頃、富士山に残る雪のまだら模様を見て田植の時期を占ったことからの連想であるという。だが事実がどうあろうと、古典文学としての面白さに変わりはない。