田村弥笑さんの見台開きに出演
6月21日(日)、雨の中、湘南小唄愛好会主催、隅田川屋形船小唄会に参加させて頂いた。熱海から、和乙乃師匠と芸妓の関美姐さんに来て頂いて、関美さんの小唄ぶり13番を全部師匠に弾いて頂いた。さぞお疲れになったであろうとお察し申し上げます。午後四時前に解散となり、帰りかけたところ、邦楽の友・守谷社長に呼び止められ、目賀田氏他と共に二次会という形で、近くの神谷バーの二階へ上った。
その際、守谷氏から、十月三日(土)、田村弥笑さんという方が、日本橋劇場で見台開きをされるので、是非応援をして欲しいという依頼があった。かって田村、蓼、春日、堀と小唄の四大流派のトップとして、清元お葉を始祖とする江戸小唄の伝統を継ぎ、最も古い歴史を誇る田村派が、今昔の感ありで、蓼や春日など他の流派に比べると、些か元気がないという。
昔のことを思い出すと、昭和五十年、ナゴチュンから東京に戻って来た私に、銀座の料亭一好(いちよし)のママ(05-11-07八海老人日記参照)を紹介してくれたのは、親友で小唄の友であったS君であった。その頃一好のママは、小唄に夢中で、同じ渋谷の円山町に住む田村幸代師匠の弟子で、料亭を貸切にして小唄の会をやり、それに呼んでくれたり、湯ヶ原の船越旅館での田村幸代一門の新年会などに連れて行ってくれたりした。
私も当時、小唄を始めて十年位で、病膏盲、すっかり小唄の世界にのめり込んでいた。小唄の上手なドイツ人・ドクター・バロンを一好のママに紹介したり、S君に誘われて、大森の鷲会館で催される鶴村貞敏師匠の会に出させてもらったり、兎に角、S君と共に小唄を唄うことが楽しくて仕方が無かった。
それが今では、田村幸代師匠が亡くなられて昨年が確か二十三回忌で、一好のママも数年前すい臓がんで亡くなり、親友だったS君も十年前、肝臓がんで死んだ、みんなあの世へ旅立って行ってしまった。小唄人生というテーマで、昔のことを思い出しながらブログを綴ることが、今の私の生き甲斐の一つとなっている。
守谷社長からの依頼は、無論、二つ返事で引き受けた。ついては、二十年前、田村幸代師匠と仲良しで私の憧れの的だった田村派のあるお師匠さんが、今でも田村会の現役でいられるので、その方に糸方をお願いしたいと思って、つてを頼ってお伺いしたら、脚の故障を理由に断られたのは残念であった。
糸方の代役を、江戸小唄友の会や天声会でお世話になっている蓼静奈美師匠にお願いしたら快く引き受けて頂いた。出し物は、昔、田村幸代師匠から貰ったテープの中から、「凍る夜」と「座敷や引け過ぎ」を選び、故人の追悼と、新しい田村派のホープ・田村弥笑さんの今後のご活躍を祈って、十月三日に唄わせて頂く。