夜の雨 | 八海老人日記

夜の雨

 吉井 勇作詞、杵屋六左衛門作曲の「夜の雨」という小唄は、大分前に一度唄ったことがあるが、十月二十一日の江戸小唄城南友の会で、蓼静奈美師の糸で再び唄うことになった。以前唄ったときは、唯なんとなく、一風変わった唄だと感じただけで、それ以上詮索する気はなかったが、今回は、ブログに載せてみようと思い、例によって、木村菊太郎氏の「昭和小唄その三」を紐解いた。


 敗戦後の日本が、高度経済成長の波に乗り始めた昭和三十年代は、小唄界が我が世の春を迎えた時代であった。ゴルフ、囲碁、小唄が社会的用語で「三ゴ時代」と呼ばれ、サラリーマンたる者は、ゴルフ、囲碁、小唄を嗜まなかったら勤まらなかった。当時、小唄の家元は百を数え、小唄人口百万とも云われ、「江戸小唄新聞」、「邦楽の友」が発刊され、小唄がラジオに進出、レコード会社は、小唄レコードの発売に力を入れるなど、まさに小唄の黄金時代であった。


 そうした時代背景の中で、レコード会社のコロンビアが、新しい企画として、新作小唄の発売を世に問うたのが小唄十二ヶ月シリーズというレコードである。これは新作小唄十二曲を一枚のレコードに収め、数回に亘って発売した。その第一回の六番目(六月)に「夜の雨」が収録されている。コロンビアは、この新作小唄シリーズのため作詞を京都に住む歌人で劇作家の吉井 勇を起用し、作曲は長唄の名人・杵屋正邦に依頼するなど、大変な力の入れようであった。


 吉井 勇の作による「夜の雨」の歌詞は、「待てど来ぬ 人を恨みて 恨みて人を ラジオかければ 亡き音羽屋に声も良く似た声色使い <丁度所も寺町の 娑婆と冥土の分かれ道 その身の罪も深川に 橋の名せえも閻魔堂>橋の夜の雨」(<>の中は科白)という型破りのもので、曲付けを依頼された春日とよ家元が、「こんなのは小唄じゃないよ」といったかどうか。作曲は、十四世杵屋六左衛門に変更された。


 吉井 勇の歌詞に、おこがましくも、筆者が勝手に注釈を付ければ、梅雨時の雨もよいの夜、多分芝居好きの遊女が男を待っているが男は来ない。所在がないままラジオをかけると思いがけなく六代目菊五郎の声色。昭和三十年代、声色の名人・悠玄亭玉介が活躍していた。<丁度所も寺町の・・・>、この科白は、髪結新三の芝居の大詰め、閻魔堂橋の場で、予て新三に遺恨を持つ乗物町の源七親分と新三が命のやり取りをする場面で、新三の小気味の良い粋な科白が評判であった。それがこの小唄の聞かせ所でもある。


 <丁度所も寺町の>という箇所を或る師匠のテープで<丁度所も寺町に>と唄っていたが、<丁度所も寺町の>が正しい。又、小唄本「千草」では、<その身の罪も深川の>となっているが、<その身の罪も深川に>が正しい。講談社発行、歌舞伎座百年記念歌舞伎名作選集で確かめた。


 髪結新三の小唄といえば、久保田万太郎作詞、山田抄太郎作曲の湯帰り新三が極め付きであるが、大詰めの新三の六代目音羽屋の科白も捨て難い。十月二十一日の「夜の雨」にはどんな新三が飛び出すやら。