あの日から
12月16日(水)、南青山会館で催される江戸小唄友の会の第152回三桜会例会で、小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の「あの日から」を唄うことになった。作詞者の小野金次郎(明治25年~昭和51年)は、横浜の生まれで、鎌倉師範中退、劇作家協会会員、大正12年読売新聞社に入社して演芸記者、昭和10年日活多摩川入所、同時に日本ビクター文芸部嘱託として作詞の道に入る。
昭和22年、敗戦後初めて歌舞伎「忠臣蔵」の上演がGHQにより許可され、歌舞伎界は沸き立った。小唄界でも、この潮流に乗り、歌舞伎小唄、歌舞伎舞踊小唄が次々と作られた。小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の「定九郎(五段目)」、「お駆(七段目)」などが発表されたのはこの頃である。
中山小十郎(大正4年~平成5年)も横浜生まれ。本名石川俊夫。長唄を初代柏伊三郎に学び、伊佐之助の名を許された。戦後いち早く、義姉・市丸(伊佐之助の夫人・静子は市丸の妹)の勧められ、歌舞伎小唄、歌舞伎舞踊小唄の手掛けた。昭和30年代は、小十郎の絶頂期で、「川水」、「おぼこ」、「あの日から」、「獅子頭」、「宵宮」、「青いガス灯」、「四万六千日」など、現代小唄の名曲を次々と世に出した。現在の小唄界で、小十郎の唄の出ない小唄会は無いといっても良い。小十郎小唄の特色は、華麗な三味の手に乗って、映えて唄えるところにある。
小野金次郎著の「自註新作小唄帳(昭和40年)」によれば、昭和35年発表の「あの日から」という小唄は、お座敷通いの下谷の若い芸妓を題材にした舞踊小唄で、花柳宗岳の振り付けで披露された。歌詞は、「あの日から 噂も聞かず 丸三月 出会い頭を忍ばずの 蓮のすがれた片かげり あえてどうなるものでなし 私もこんなに痩せました 義理の枷」。
芸妓が、客の一人を好きになったが、あれからもう丸三月も来てくれないし噂も聞こえてこない。或る日、不忍池の畔の枯れた蓮が日に翳っているを見ながら歩いていると、ばったりあの人に出会った。「どうしているの」と優しく言ってくれたが、会えたからといってどうなるものでもなし。「私もこんなに痩せました」と胸のうちをつぶやくだけで、ほんとに芸妓家業は辛い。かつて全盛時代のデップリ太った故蓼胡満喜家元が、「私もこんなに痩せました」と唄ったら、お客がドッっと笑ったのを思い出す。