空や久しく
四月十五日の江戸小唄友の会で「空や久しく」を唄うことになった。この唄は古い唄で、作詞は不詳、作曲は、明治の中頃、一中節の大夫・都以中とされている。小唄の歴史を紐解いて見ると、江戸文化の一端として、三味線の普及と共に、江戸庶民の間に広がっていった歌謡は、富本節、清元節、一中節、宮園節、新内節、歌沢節、常磐津節、河東節など、それに上方から流れてきた浄瑠璃、長唄、端唄など、更に地方から伝わってきた民謡など、極めて多種多様であった。
その中で、明治の中頃、清元お葉が天才的才能で、今までにない新しい小曲を創りだした。お葉の祖父・初代清元延寿大夫は、清元節の創始者で、父は二世延寿大夫、母は長唄の名手、そういう中で育てられたお葉は、幼い頃から天賦の才に恵まれ、男に生まれて欲しかったと父が悔しがったという。お葉が十六歳のとき、父が亡くなり、その遺品の中から出てきた松平不昧公の歌に、今までの歌謡とは一味違った節をつけた。それが「散るは浮き」という唄で、江戸小唄の元祖となった。お葉の新しい唄は粋な味がするというので瞬く間に広がって行った。
お葉に刺激されてか、都以中が「空や久しく」という小唄曲を作ったのも、多分この頃であろう。都以中の本職は一中節であるが、宮園節、清元節にも長けていたので、「空や久しく」には、宮園、一中、清元の夫々の節が取り込まれているのが特徴である。即ち、「空や久しく雲らるる」は宮園、次の「降らるる雨も晴れやらぬ」が一中、次の「濡れて色増す青柳の」が清元、最後は「糸の乱れが気にかかる」で終わっている。
この唄は、梅雨空にかこつけて、情婦を持った男の心の機微を唄ったもので、青柳は女を意味し、糸は勿論三味線を意味する。この唄を意訳すると、「ふとした縁で結ばれた女であるが、あの女、どうもこの頃、色気が増してきたようだ。それに三味線の音締が少し乱れてきたようだ。他に好きな男でも出来たんじゃないかと思うと、この梅雨空のように心が晴れない。」となる。