森浩一が語る日本の古代ーその二
(岡本太郎が製作した「太陽の塔」、縄文土偶のイメージそっくり)
「森浩一が語る日本の古代」ーその二は、森浩一著「日本の古代」の入門編をテキストにしている。日本列島に人々が住み始めたのは、凡そ数万年前の旧石器時代。今より7~8度も気温が低く、氷河時代とも言われる。氷で覆われた部分が多かったため、海面も今より100m以上低かった。日本列島は、その頃、大陸とは繋がった土地で、大陸から大型獣がやってきて、それを追って人々もやって来たと思われる。その証拠に、北海道や長野県でマンモスやナウマンゾウの化石が発見されている。
旧石器時代に続く縄文時代は、その後の弥生時代から現代までの4倍以上の長い期間である。凡そ12,000年前頃から、気候も大分温暖化し、地上には豊かな林森が広がり、人々は洞窟から出て地上に穴を掘り、草葺屋根を付けた竪穴式住居に住むようになった。土を焼いて土器や土偶を作った。この土器と云うのが縄文人の偉大な発明品で、世界の古代にも見られない独特の文化であった。人々はこれで煮炊きすることが出来た。それは食糧事情の緩和に大いに寄与した。
縄文人というのは、色々な部族の混合と考えられる。ルーツを辿って見ると、北方系、大陸系、南方系に大きく分けられるが、北方系は、沿海州や樺太方面から、宗谷海峡、津軽海峡を経て本州に達するルート、大陸系は、モンゴルヤ中国大陸から朝鮮半島を経由して、北九州や山陰地方に達するルート、南方系は、南方海路から来て、瀬戸内海、豊後水道、紀伊水道などを経由して各地に達するルートなどで、これらのルートの中で、圧倒的に渡来の多かったのは大陸系で、朝鮮半島経由であった。
それにしても、縄文時代の土器や土偶の造形に見られるあのエネルギッシュな活力は、何処から生まれ出たのであろうか? 弥生時代には見られない独特な火焔土器や宇宙人のような土偶たちは、私たちに何を語りかけようとしているのだろうか。考古学者の森浩一は、それについては何も応えてくれない。
推理作家の黒岩重吾は、日本の古代史に興味を持ち、優れた洞察をしている。彼は、縄文人がエネルギッシュな活力に満ちていたのは、人々の生き様から来ているという。縄文人が生きるということは、獣との闘い、自然との闘い、他部族との闘いなど、全て命がけであった。5人の子を産んでも一人しか生きられなかった時代を生き抜くには、エネルギッシュな活力が不可欠であったのである。火焔土器を作り、神への供え物を飾り、病気や怪我をすると、災いを土偶に肩代わりして貰うよう祈った。
縄文式土器検索して驚いたことがある。それは、前衛画家・岡本太郎がパリから帰国して間もない40歳の時(1951年)で、まだあまり知られていなかった頃、偶然何の気なしに入った上野の国立博物館の考古学資料展示室で、縄文式土器に巡り合って、「コリャなんだ!!!」と叫んだ。そこにある不思議なもの、ものすごい迫力で迫ってくるもの見た。身体中の血が沸き立つのを感じた。それが先史時代の土器である。それが岡本太郎の日本発見であったと同時に自己発見でもあった。以来、縄文土器は岡本太郎のモチーフになった。1970年の大阪万博で岡本が作った「太陽の塔」は、まさに岡本太郎のモニュメントであり、「顔は宇宙だ」と叫んでいる。私たちも命がけで生きた縄文人から、多くを学ばなければならない。