なぜ舒明天皇の歌が雄略の次に出てくるのか | 八海老人日記

なぜ舒明天皇の歌が雄略の次に出てくるのか

         

         (万葉集巻一の二 舒明天皇の歌)


 万葉集巻一の最初の歌が第二十一代雄略天皇の歌で、なぜ雄略の歌が最初に出てくるかについて、前回ブログ「万葉の世界」で書いた。それを要約すると、雄略帝は、本名を昆支(こんき)と言い、百済王族の出身で、五世紀後半、兄の百済王に命ぜられて、倭国を統治するために日本列島に渡り、初めて倭国全体を一つの政権で統一した大王で、「籠(こも)よ み籠持ち・・・・」と倭国支配宣言の歌を作った人である。八世紀中頃、第四十五代聖武天皇の発案で万葉集の編纂が始められた時、編者(大伴家持)が雄略帝を初代倭国王と位置づけたため、この歌が万葉集の最初の歌になったと言う訳。


 巻一の二番目に何故舒明の歌が来るのか? その理由について小林恵子の説に耳を傾けて見よう。先ず聖徳太子の出自に遡る。聖徳太子は出生から青年期まで様々な伝説に飾られているが、彼が歴史に登場してくるのは、蘇我氏が守屋氏と戦った時、蘇我側の指揮官として力を発揮し、遂に守屋を滅ぼしたという記述からである。宮廷育ちの若者がいきなり実戦に参加して目覚しい働きをするなどと言うことは考えられない。本当は、彼の名は昆支(こんき)と言い、モンゴル系騎馬民族からなる半島北部の小国の王であった。百済と組んで隋に反抗したが戦に敗れ、その頃百済系実力者・蘇我馬子を頼って倭国に亡命した。蘇我が守屋を滅ぼしたあと実力を馬子に認められ、推古天皇を補佐する摂政として倭国の政治を委かされた。彼は馬子と共に帝を援け、数々の政治改革を断行し、また大陸文化の導入にも努め、日本書記の編纂者から「聖徳太子」という贈名を付けられた。


 622年に聖徳太子が没し、628年には推古天皇も病没、そのあと629年に聖徳太子の息子・山背大兄皇子が即位したが、山背の即位は日本書紀から抹消され、中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)の父である田村皇子が第三十四代舒明天皇として推古天皇のあとを継いだことになっている。何故そうされたかと言えば、山背大兄皇子は、騎馬民族の王であった聖徳太子の息子で、如何に人望が厚くても、百済系人脈から見れば異端の系譜で、排除、抹殺されても仕方がなかったからだと言えよう。


 山背王朝が、自ら大王になろうとした実力者・蘇我蝦夷、入鹿親子によって、一人残らず皆殺しにされたことが、百済王朝の流れに繋がる中大兄皇子、中臣鎌足らに蘇我誅殺の絶好の口実を与えた。こうして乙巳(いっし)の変となり、蘇我氏は滅亡、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武、持統と百済系王朝が続き、蘇我氏に代わって藤原氏が政治の舞台にのし上がって行くのである。


 第二十一代雄略帝から三十四代舒明帝まで、約一世紀半を経ており、その間、大和朝廷では、様々な事件(07・06・16ブログ{万葉の世界』参照)が起きており、政治的には不安定な時代であった。日本書紀には、その間十三代の天皇名が記されているが、その殆どが百済や高句麗の王族に血脈関係のある人達である。08・06・03ブログ「万葉の世界」で、「万葉集」が日本列島や朝鮮半島の政治の裏面史を暴くと述べたが、万葉集巻一の歌と二の歌、つまり雄略と舒明の間に、恐ろしい近江王朝の裏面史が隠されている。万葉集の編者が、舒明に続く百済系王朝の正当性をアピールするため、雄略の次に舒明を持って来たのだと小林恵子氏は主張する。万葉集巻一の二の歌はあまりにも有名な舒明天皇の「大和には群山あれど・・・・」という国褒めの歌である。