権九郎 | 八海老人日記

権九郎

 来年2月8日の室町小唄会第30回記念会で、小唄の縁で時々お付き合いしているEさんの注文で、「権九郎」を唄って欲しいと言われて、人がいいからすぐその気になった。この小唄は、清元小唄で以前は良く唄われたが最近はそれほどでもない。作詞は、芝居小唄で定評のある英十三、作曲は、山口こう(明治22年~昭和38年)。山口こうという人はあまりよく知らないが、昭和26年頃、彗星のように小唄界に現れ、数多くの名曲を残されたかたである。


 山口こうは本名で、浅草千束町の生まれ。幼い頃から踊りと三味線を習い、芸事が好きだったから小学校を出ると自分から浅草の花街に入って雛妓となり、義太夫、長唄、常磐津、新内、歌沢、小唄、清元とあらゆる稽古事を習った。特に清元は、清元太兵衛、正太夫に師事し、声が良かったから「清元芸者」の名を高めた。昭和11年に娘・徳子が、神楽坂に「徳の家」を興したのを期に芸者を止め、芸事に専念した。昭和26年頃から、清元の合い弟子だった草紙庵や市川三升、英十三などに薦められて小唄の作曲をするようになった。「権九郎」は、英十三の作詞による、歌舞伎五題に山口こうが作曲した中の一つである。


 木村菊太郎の昭和小唄その二の553頁に「権九郎」の解説が出ており、「黒手組の助六」を題材にした小唄であると書いてある。歌舞伎座の新春公演の夜の部に上演される「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の助六と同じ筋だと思っていたら、全く違うので驚いた。今まで迂闊にも助六の芝居が二つあることを知らなかった。「江戸桜」の助六は、1713年頃に出来た曽我物で1813年に七代目団十郎が、「市川家歌舞伎十八番」を定めた時、その一つが「江戸桜」で所謂「荒事」。1858年に幕末の名優四世市川小団次が「江戸桜」の助六をやりたいと望んだ時、その柄でなかったので河竹黙阿弥が「和事=世話物」の「黒手組の助六」に改作したのだという。その序幕が白玉権九郎の道行なのである。この時、黙阿弥は主役で色男を演ずる助六役者に、醜男で三枚目役の権九郎を一人二役で演じさせるという、所謂パロディーを演出して観客を驚かせた。泥にまみれかれたはすの葉を頭に被った権九郎がほうほうの態で池から這い上がって来たのを見て観客はどっと沸いた。


《あらすじ》

 序幕の舞台は、上野の忍ヶ岡(今の上野公園辺り)。吉原・三浦屋の遊女・白玉が、大店の番頭でブス男の権九郎を唆し、廓から逃げ出してくる。そこに待ち構えていた白玉の情夫・牛若伝次は、権九郎が店からくすねてきた五十両を奪い取り、権九郎を不忍池へ突き落とす。うまくいったと喜ぶ二人だが、追っ手に取囲まれ、白玉は捕まり伝次は辛うじて逃れる。このあと、二段目、三段目が続くのだが、「江戸桜」に出てくる人物が名前を変えて同じような役に出てくるので詳細は省略。


《歌詞》

 「咎めなば露とや消えん白玉と 上野の鐘の権九郎 人目忍ぶの岡越えて 胸の思惑世迷言 二人一緒に暮らすなら 仲良く箸を取膳に 一つ肴を毟りあい さいつおさえつ小鍋立て 嬉しい仲ではあるまいか 首尾もよしずの後より 戴く金を鷲摑み やらじとするを突き放し 池へどんぶり水煙」「伝次さんか」「ア、コレ」「伝次さんうまくうまくいったね」「そうよ」。英十三の作詞は「ア、コレ」までだが、そのあとは「おまけ」。