法隆寺ー隠された十字架6-救世観音像の謎 | 八海老人日記

法隆寺ー隠された十字架6-救世観音像の謎

          救世観音像 (救世観音)


 梅原猛の法隆寺論を読み進んできたが、今回で終りにしたい。11月5日から二泊三日の奈良の旅で、最初の日、法隆寺を訪れ、主な建物や仏像を見て廻り、夢殿の秘仏・救世観音にも対面したが、内部が暗く、仏の表情など、詳しく見ることができなかった。聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏から出て、皇族以外から始めて皇后の位に付いた光明皇后が不比等亡き後、聖徳太子一族の怨霊が未だ十分に慰め足りないと説く怪僧・行信の勧めで夢殿を建てた経緯については10月5日のブログに書いた。


 この夢殿の中には、からだを木綿のさらしでぐるぐる巻きにされた救世観音(ぐぜかんのん)の像が納められていた。この仏像は秘仏とされ、作られてkら1200年間、一度も人目に曝されたことが無かった。明治17年の夏、岡倉天心の師・フェノロサによって、この仏像のヴェールが剥がされた。廃仏毀釈の風が吹く中で,寺院側としては、政府の許可を貰ったフェノロサを拒否できなかった。フェノロサが仏像の白布を解き始めると、寺院の僧たちは一斉に外に逃げ出したという。この仏像を見るものは眼がつぶれるとか天変地異が起きるとか言い伝えられてきたからである。


 聖徳太子と等身大で、太子の風貌に似せて作られたというこの仏像は、フェノロサによって初めて人目に曝されることになったが、フェノロサはこの仏像の不気味な微笑みの表情を見て、ダヴィンチのモナリザのようだと言ったという。この仏像は乾漆作りで、胴は空胴になっており、頭と胸に太い釘が打ち込まれ、それで光背が支えられている。こんな仏像は他には無い。両手は太子の骨を入れたと思われる骨壷を抱えている。一本の釘で頭を貫かれ、もう一本の釘で重い光背を打ち付けられて、如何に執念深い太子の怨霊であろうとも身動き出来ないようにされたともの考えられる。


 救世観音は、以上の様子で分かるように、太子の人形(ひとかた)であり、行信が、太子の怨念を恐れた光明皇后のために行った呪詛の結果なのである。太子の崇りをおそれるあまり、太子の人形をつくり、これに太い釘を打ち付け怨霊の消滅を祈祷したのである。このような方法で人を呪うことは古代の法律では厭魅(えんみ)といって重い罪に当たる。行信は他でも同じことをやったため失脚し、天平勝宝六年(754)、下野の薬師寺に流された。


 法隆寺には、年に一度、聖霊会(しょうりょうえ)という聖徳太子の霊を慰める法要が行われる。聖霊会には、 50年毎に行われる大会式と毎年行われる小会式があり、最近の大会式は昭和46年であったかあら、次の大会式は昭和96年即ち平成33年になる。梅原猛は、昭和46ねんの大会式を見ることが出来て、この法要が聖徳太子及びその一族の怨霊を慰める法要であることを確信した。


 大会式法要のクライマックスは、聖徳太子の骨壷と太子七歳像が飾られた講堂前の広場で廻れる蘇莫者(そまくしゃ=蘇我一族の亡霊、太子は蘇我の出であり、蘇莫者は太子の亡霊を現す)の舞であるが、この風貌がどこか太子の風貌に似ている。頭から垂れ下がっている白い毛の間からぎらりと見開いた目がみえる。梅原猛はこれを聖徳太子の亡霊と見る。太子七歳像は殺された太子一族の象徴である。世阿弥の能にはしばしば亡霊が登場するが亡霊が冥界から地上に姿を現す時、必ずその亡霊に縁のある依代(よりしろ)を通じてやってくる。後世、室町時代に世阿弥によって大成された能は、舞楽・蘇莫者の舞と同じ構造をもっている。能の始まりは、恐らく死者の鎮魂の儀式から来ていると思われる。世阿弥は、おそらく職業的鎮魂者の家系の出だったのではないかと梅原猛はいう。


 梅原猛の「法隆寺論」をテキストにした日本古代史のブログは一応ここで終りとするが、梅原猛は、日本古代史において怨霊となって藤原一族をこれほど苦しめた聖徳太子の実像については、未だあまり明らかではないとしている。私は次のブログ「日本古代史」で、聖徳太子の実像について一歩近寄ってみたいと思う。仁徳天皇、聖徳太子、救世観音、大宰府に流して殺した菅原道真を天神と称えるなど、歴史を偽造し、だまし討ちと褒め殺しは皇室、藤原氏始め総ての権力者のお家芸である。「聖徳」の美名の影に何が隠されているのか。太子は何故「天皇」とされなかったのか。次回は坂口安吾や半藤一利の所論を紹介する。