大津皇子と二上山
大津皇子の悲劇については、昨年9月13日のブログに書いたが、今年11月5日から二泊三日で万葉の故郷・奈良を訪ねた際、思いがけなくタクシーの運転手さんが古代史に詳しい方で、大津皇子が持統天皇から死を賜った時、泣きながら辞世の歌を詠んだという磐余(いわれ)の池の跡地(いまはない)であまり人の行かないところへ連れて行ってくれたり、大津皇子の墓がある二上山を眺めたりして感慨を新たにしたので、その思いを改めてブログに書きたいと思った。
大津皇子の事件は、父の天武帝が686年9月9日、56歳で没した直後、大津皇子の親友であった川嶋皇子の密告により謀反の疑いを掛けられ、自殺させられた事件であるが、これに関する日本書紀の記述には大きな疑問がある。何故と言えば、日本書紀は勝者の書であり、万葉集は敗者の書で、日本書紀が「偽」を語り、万葉集が歌と歌の間に、より多くの真実を語っているからである。大津皇子の事件は、持統帝が、自分の腹を痛めた草壁可愛さの余り仕組んだ陰謀だったのであろう。
大津皇子には、母を同じくする一人の姉がいた。母は大田皇女(持統帝の姉)で姉の名は大来(おおくのひめみこ)。大来皇女は、13歳の時から、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)に任ぜられ、都を遠く離れた伊勢にいた。
天武帝が病篤く死の床につくや、朝廷内では後継者問題で騒然となり、大津皇子はライバルの草壁一派から抹殺されるのではないかと、薄々身の危険を感じていた筈である。そんな頃、大津皇子が、秘かに伊勢にいる姉を訪ねたのである。
その時、皇太子の草壁を擁立する持統帝は、14年前の壬申の乱をまざまざと思い出していたに違いない。あの時、夫である大海人皇子は、兄の天智帝が没するや、皇太子・大友皇子を擁立する朝廷から抹殺される危険をを察知して吉野に逃れ、遂に挙兵して大友皇太子を敗死させた。今度は自分が朝廷側であるが、同じことが二度起きないという保証は無い。人望厚い大津皇子が謀反を起こすという疑心暗鬼に持統帝が取り付かれたとしても不思議は無い。
伊勢に長くいると疑われると言う弟を都へ帰してやる時に大来皇女が作った歌二首が万葉集巻2に載せられている。「わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて 暁露にわが立ち濡れし(105)」(弟を都へ帰してやり、見送りがてら佇んでいると、夜も更けて、明け方の露に私は濡れてしまった)、「二人行けど行き過ぎ難き秋山を 如何にか君が独り越ゆらん(106)」(二人で行っても行き過ぎ難い秋の山道を、今頃はどのようにして弟は独りで越えているのだろうか)
都へ帰った大津皇子を待ち受けていたのは、謀反の疑いによる逮捕であった。こともあろうに親友の川嶋皇子の密告により10月2日に捕えられ、その翌日に自決を強いられた。このとき作られたという辞世の歌・万葉集巻3-416については、昨年9月13日のブログに書いたから省略する。そして大津皇子の遺体は大和盆地を見下ろす二上山の頂に葬られた。その知らせを聞いた大来皇女の、弟の死を悲しみ悼む歌二首が万葉集巻2に残されている。「うつそみの人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世(なせ)とわが見む(165)」(生きてこの世に残っている私は 明日からは二上山を弟と思って眺めよう)、「磯の上に生うる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言わなくに(166)」(磯のほとりに生えている馬酔木の花を手で折ってあなたに見せようと思うが 貴方がこの世にいるとは誰も言ってくれないのに)。