大伴家持の青年時代
(前回まで) クラス会のお世話でバタバタして暫くブログから遠ざかっていたが、一段落したのでブログを再開する。前回「万葉の世界」では、万葉後期の代表的歌人とされる大伴家持が、天平十年(738)、23歳で名門貴族従三位・大伴旅人の跡を継ぐ有能な若者として初めて朝廷に出仕し、内舎人(うちとねり)に任官した所まで話を進めたが、その頃は藤原不比等亡き後で、藤原広嗣の乱などがあったりして世情は騒がしく、聖武天皇と光明皇后は、諸国に国分寺の設置と東大寺に大仏建立を発願された頃である。
(越中守時代) 大伴家持はその後順調に昇進し、天平十八年(746)7月、従五位下の時越中守に任ぜられ、富山に赴任する。その頃の越中は、能登(石川県)をも含む広大な地域であった。現在なら弱冠29歳で富山、石川を含めた県の県知事という訳。如何に彼が嘱望されていたかということ。そこで彼の最も重要な仕事は徴税と高利貸であった。開墾を奨励して税収を増やし、春には農民に種籾を貸付け秋に高い利息をつけて回収する。彼は馬車馬の如く働いた。それは唯々東大寺の大仏建立の資金集めの為であった。勝宝三年(751)、彼は少納言に昇進され都に戻る。万葉集4516首の内、家持の歌が473首もあり、その内223首が越中守時代の作歌であることから、如何にこの時代彼が張り切っていたかが分かる。
(海行かばの歌) 戦時中忘れもしない大本営発表と共に聞かされた「海行かば」の歌は、家持が越中守時代に作ったものである。大仏に貼り付ける金が足りなくて困っている時、偶々陸奥の国で砂金が900両も出土して、天皇がすごく喜んで詔を発し、汝等の遠い先祖から皇室に尽くしてくれたお陰で天が助けてくれたのだと白うた。それに感激して家持がこの歌を作った。天皇の為ならどこで死んでも省みませんとお世辞を言ったのがあの歌で、その為後の世靖国神社に祀られることになった若者の英霊がどれだけいたことか。
(東大寺大仏開眼供養会) 家持が都へ帰った翌年、勝宝四年(752)四月、東大寺大仏開眼供養会が盛大に催された。その前勝宝元年(749)、予て健康の優れなかった聖武天皇は7月孝謙女帝に譲位され、ご自分は出家された。健康上というのは表向きで、実は藤原一族と結託する光明皇后に退位を迫られたようだ。その直後、藤原仲麻呂が一躍大納言に昇進した。大仏開眼の際、孝謙女帝は文武百官を率いて自ら開眼会を主宰した。この行事が終わった後、女帝は宮廷に帰らず、仲麻呂の屋敷に居続けしたのである。家持も当然この儀式には参列していたであろう。女帝の行動が単なる性的スキャンダルに留まらず、政治的に重大な意味を持っていることに気付いたであろう。女帝と仲麻呂の結託、それを支える光明皇太后という構図である。そしてこのことが、後の橘奈良麻呂の乱への導火線となって行く。家持はこの時限り筆を折り、万葉集には大仏を称える歌は一つも載せられていない。越中時代の苦労は何であったあのかという家持の呟きが聞こえるような気がする。(続く)
法隆寺ー2 法隆寺再建の中心人物と見られる藤原不比等
(藤原不比等)
テーマ・日本古代史ー法隆寺ー1で、聖徳太子の氏寺であった斑鳩寺(後に法隆寺)が670年に落雷で全焼したあと、誰がいつ何のために再建したのかという謎に迫ったが、結論的にには、藤原不比等が中心であったらしいという所まで来た。ところが、藤原不比等が実質的編纂者であると云われる「日本書紀」には、法隆寺の再建については、何一つ触れられていない。梅原氏は、藤原不比等には、法隆寺の再建に触れたくない事情があったと推論している。ではその触れたくない事情とは一体何であったか。
梅原氏によると、「古事記」「日本書紀」の本当の作者は、藤原不比等だという。権力者が自分に都合のよいように粉飾した歴史書であるという。例えば「大化の改新」にしても、皇室をないがしろにし、横暴の限りを尽くした蘇我蝦夷、入鹿を、中臣鎌足と組んだ中大兄皇子が滅ぼし大化改新を実現したと教わったが、実際は、山背大兄皇子、蘇我親子、古人皇子、有間皇子など全ての邪魔者を倒し、最終的に権力の座を手に入れたのは藤原氏で、中臣鎌足の大陰謀だったという。
梅原氏によると、中臣鎌足という人物は、元々神に仕える氏族で、神のご神託を天皇に伝える役目であったという。そこで中大兄皇子、軽皇子(後の孝徳天皇)等と談合し、野心的に全ての企てを実行したらしい。そして鎌足の子・不比等は、父・鎌足の所業のすべてを見て育ったであろう。その不比等が最も恐れたのは、深く仏教に帰依し、子孫のことごとくを殺された聖徳太子の死霊であった。不比等が中心になって、聖徳太子の死霊が藤原一族に祟りをしないよう閉じ込めるために法隆寺を再建したと考えられる。法隆寺をどの寺よりも立派に再建するから、聖徳太子よどうか成仏してくれ。そしてそこから外に出ないでくれと言うのが、不比等と彼を取り巻く一族の悲願であった。ところが、720年に不比等が62歳で急死し、残った4人兄弟も、藤原氏の前に立ちふさがった長屋王を殺すと、そのあと、次々に祟りが起き、藤原一族にとって大変なショックだったことであろう。
藤原氏一族が、如何に聖徳太子の死霊を恐れたかということは、不比等の死後、妻の橘三千代、娘の光明皇后、孫の聖武天皇など不比等の一族から、夥しい財物が法隆寺に寄進されたという事実がこれを裏づけている。また、法隆寺の建物、五重塔、仏像その他についての多くの謎が、このことによって解き明かされてゆくのである。(続く)
万葉後期の代表的歌人・大伴家持
〔大伴家持と万葉集〕 大伴家持(718~785)は、万葉の後期を代表する歌人である。しかも、万葉集を今日私たちが目にする形に再編纂し、既に出来ていた巻1、巻2、巻9に、膨大の数の追加をし、20巻4,500余首の歌集に纏めたのも彼であるとされている。万葉集は、日本が世界に誇る最古の歌集であり、奈良、平安時代に生きた人々の生き様を生き生きと表現している。しかし、哲学者・梅原猛氏は、この万葉集を単なる文学作品と見てはならないと警告している。万葉集の再編に際し、家持によってこの歌集に込められた並々ならぬ意図が隠されていると感じられるからである。その意図が何であったかは、家持が辿った時代の足跡から次第に明らかにされてゆく。
〔幼年期の家持〕 家持は、大伴旅人(665~730)の長男で、妾腹の子であるが、大伴氏の家督を継ぐべき人物として、旅人の正妻・大伴郎女(いらつめ)によって大切に育てられた。しかし、大伴郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別し、その後は、旅人の妹・坂上郎女が家持の教育係りを自ら買って出、家持は、この美しい中年女性である叔母によってみっちりと教養を身につけさせられた。家持16歳のとき、坂上郎女から、「月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋し君に逢えるかも」と詠まれたのに和して、すぐさま「ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引おもほゆるかも」と返したという。坂上郎女は、家持の未来に大きな期待と父大納言を失った後の宮仕に一抹の不安を抱いた。
〔藤原氏の専横〕 720年、臣下の身で天皇の外戚となり、宮廷内の権力を欲しいままにしていた右大臣・藤原不比等が急死し、そのあと皇族の長屋王が右大臣となったが、長屋王は藤原氏の専横を押さえようとしたため、藤原武智麻呂他4卿によって、罪無くして殺されるという長屋王の事件が729年に起きた。そのとき家持の父旅人は、偶々任地の大宰府にいたが勅命によって都に呼び戻され翌年67歳で没した。このあと、藤原4卿が次々と疫病で死に、地震や旱魃などがあり、人々は長屋王の祟りだと言って恐れた。こんな時代を見ながら、家持は成長していった。
〔内舎人(うちとねり)に任官〕 740年、家持23歳のとき内舎人に任官し、官人としての生活を始めた。内舎人というのは中務部(なかつかさ)に属し、天皇に近侍して、護衛、雑使などに奉仕する役目で、有力貴族の子弟のなかから選ばれたというから、言わばエリートコースという訳。家持が官途について間もなく、九州大宰府で藤原広嗣が反乱を起こす。世の中はまだまだ騒がしかった。聖武天皇が大仏建立を発願されたのはこの頃であった。(以下次回)
富士見西行
先日、「白洲正子が愛した二人の日本人」というテレビ対談を見た。二人の日本人とは、西行法師と明恵上人のことである。この二人の日本人に共通なことは、人生をひたむきに生きたということである。白洲正子が、何故この二人を愛したかといえば、この二人に共通して言えるひたむきな生き様に惹かれたからであろう。対談中、誰かが、白洲正子は面食いで、西行法師も明恵上人も男前だったから好きになったのだろうと言ったら、皆で笑っていたが、白洲正子も魅力的な女性であると思う。そこで、明恵上人のことはよく知らないから置いておいて、正子が愛したというもう一人の日本人・西行の小唄「富士見西行」を歌ってみようと思い立った。
明恵上人のことは、世間であまり知られていないが、西行は、芝居にもなり、小倉百人一首でもお馴染みである。西行の芝居はまだ見たことはないが、西行がある晩秋の旅の途中日が暮れて、一軒の遊女屋に泊めて貰ったとき、目の前にいる遊女が、目を閉じると普賢菩薩に見えたという芝居で、西行には色気もある。百人一首は、上の絵の通り、墨染め姿で嘯いているが、西行は元、佐藤義清(のりきよ)と言い、鳥羽上皇に仕えた武士であったが、23歳のとき、戦乱の世を儚んで出家し、歌を詠みながら日本国中旅をして歩いた。後鳥羽院が選ばせた新古今和歌集には、西行の歌は94首も選ばれている。生まれながらにして歌の才能には恵まれていたようだ。
西行に関する小唄は幾つかあるが、代表的なのは「富士見西行」である。これは、西行が夏の暑いころに諸国修行の旅をして熱田神宮に詣でた時、境内があまっりに涼しいので、「かほど涼しき宮立ちを 誰が熱田と名付けつるらん」と一句詠んだところ、お宮の中から、「西へ行くべき西行が 何故に東へ下らんす」とお返しがあったという話を基にした上方小唄を、明治になってから江戸小唄に作り変えたものであるそうだ。
「富士見西行」の歌詞は、「さるほどに これはまた 西行の坊ん様が 富士の白雪眺めんと 風呂敷背負うて 杖突いて 笠着て 西へ行くべき西行が 何故に東へ下らんす」。歌い方は、「さるほどに」は、侍言葉であるが、飄々と歌いだし、「これはまた西行の坊ん様が富士の白雪眺めんと」は、世を捨てた坊んさんが、悠然と霊峰富士を眺める風景を思い浮かべながら唄い、次の「風呂敷背負うて 杖ついて 笠着て」のところは少し早間で、「西へ行くべき西行が 何故に東へ下らんす」がこの唄の山場でたっぷりと唄う。季節は、どちらかといえば、秋。
法隆寺ー1(今の法隆寺は聖徳太子が建てたものではない)
(中門から五重搭を望む) 梅原猛氏の法隆寺論を読み始めた。梅原氏の哲学的思考は、世間の常識に疑問を持つことから始まる。法隆寺は、世界最古の木造建築として世界文化遺産に登録され、日本に残る仏教文化として、世界に誇る遺産であることは、常識として認められることであるが、では一体、誰が、何時、何のためにこの寺を建てたのかということが現在判っていない。これが大きな謎に包まれているのである。
古事記や日本書紀などの歴史書を調べても、何時、誰が、何の為にこの寺を建てたのかという記録は全く無い。ただ日本書紀に、670年、落雷により総ての堂塔を焼失したとの記述があるが、その後の再建については全く記載が無いのも不思議である。今の我々が目にする法隆寺の立派な堂塔を、一体誰が再建したのだろうか。聖徳太子の子孫では有り得ない。梅原氏は、歴史に書かれていないところに真実が隠されていると推論する。
凡そ日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によれば552年(別の歴史書では538年)、29代欽明天皇(聖徳太子の祖父)の13年に、百済の聖明王が釈迦仏金銅像や経論を天皇に贈ったのが始まりとされているが、元々古代日本の天皇家や豪族の先祖は、朝鮮から渡来した部族のようだから、蘇我氏などは、4世紀ころから百済を通じ既に仏教を受け入れていたと見られる。
日本書紀によれば、百済から釈迦の仏像とお経を贈られた欽明天皇が、「西の野蛮人がくれた仏像は見た事が無い顔をしている。敬うべきか否か」と群臣に問うたところ、蘇我氏は崇仏、物部氏は排仏と鋭く対立し、結局蘇我氏が物部氏を滅ぼしてけりがついた。このとき、蘇我軍に厩戸皇子(うまやどのみこ 後の聖徳太子)が参戦して手柄をたてた。こんな事変があって、仏教は朝廷の間で急速に広まった。しかし、当時の有力者たちが仏を崇めたのは、純粋な宗教心からではなく、死んでから極楽へ行ける様にとか、災厄が来ないようにとか、仏像の呪術的な力にすがるという目的であった。こうして有力氏族の間では,草堂を建てて仏像を祀り、氏族の幸せを祈るようになった。そして用明天皇(聖徳太子の父)の代に仏教が始めて公認された。
法隆寺は、始めは斑鳩寺と言って、用明天皇が亡くなられた後の590年頃、仏教に熱心だった聖徳太子が、氏寺として小さな非公認の寺を建てたのが始まりだったようだ。607年に官寺として公認された。622年、聖徳太子がこの世を去り、643年、聖徳太子の第一皇子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が皇位を覗うのではないかと疑心を抱いた蘇我入鹿が皇子を襲い、
一族総て斑鳩寺で自刃して果てた。645年、蘇我氏もまた、大化の改新で、中大兄皇子と組んだ中臣(後に藤原)鎌足によって滅ぼされた。670年に火災で焼けた法隆寺を再建したのは、その後朝廷の実権を握った藤原不比等であったらしい。では、不比等が何のために莫大な財力を投じて法隆寺を再建したのか。それについての梅原氏の推論は次回に。
山上憶良
(秋の七草) 大伴旅人と並んで奈良時代を生きた万葉の代表的歌人・山上憶良 (660~733)は、近江の生まれらしいが、生まれた状況などよく分からない。先祖は百済系渡来人という説もある。702年6月、43歳の時、遣唐使に随行して唐に渡り、漢詩、漢文、儒教など唐文化を学び707年7月、帰国。716年4月,伯 耆守に任ぜらる。721年、皇太子・首皇子(おびとのみこ のちの聖武天皇)の侍講を拝命。726年、筑前守として九州に赴任。728年春、大伴旅人が太宰師として着任して来たので歌友として親交を結ぶ。732年帰京。733年、病気で他界、享年74歳。
万葉集には、山上憶良の歌は、凡そ70首ほど収録されているが、その内の半数以上が、筑前守時代、大宰府の大伴旅人らと歌の道で交わっていた頃の作品で、優れた歌が多く、生活を滲ませた歌に特色がある。「宴を罹る歌」、「子らを思う唄」、「梅の花の歌」、「秋の七草」、「貧窮問答歌」など、憶良らしい歌であるが、憶良の歌は、庶民性の故に、後世の歌壇からは、あまり評価されなかった。江戸時代になって、山上憶良の価値を見出したのは、賀茂真淵である。憶良は、官人としての栄達には恵まれなかったが、農民たちの苦しみや、友人たちの悲しみなどを共感することが出来た。賀茂真淵は、万葉集の研究を通じて、上代人の只管な人間感情の中に日本人の魂の伝統を発見した。
宴を罹る歌は、「憶良らは 今は罹らむ子泣くらむ それその母も吾を待らむぞ」(3-337)。 728年頃、大宰府の旅人邸における宴での歌のようだ。憶良らしい軽い歌である。
子らを思う歌は、「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠(やすい)し為さぬ」(5-802)。【通訳】:瓜を食えば、子供にも食わせてやりたいと思う。栗を食べれば、まして子供のことが偲ばれる。子供というものは一体どこから来たのだろうか。子供の面影が目の前にちらついて、夜も安眠できない。この歌の反歌が、「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉(たま)も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」
梅の花の歌は、「春されば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春ひ暮らさむ」(5-818)。【通訳】:春になれば、真っ先に咲く我家の梅の花を、独り眺めながら、春の日を過ごすとしようか。730年1月、大宰府の旅人邸における梅見の宴詠んだ歌。旅人は、その年10月、大納言に昇進して都に帰り、翌年7月、67歳の生涯を終えた。
秋の七草は二首、「秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数ふれば七種(ななくさ)の花」()8-1537 及び「萩の花 おばな葛花なでしこの花 をみなへし また藤袴朝貌の花」(8-1538)。通訳するまでもないが、最後の朝貌は今の朝顔ではなく、桔梗のことである。
貧窮問答歌は、憶良の晩年、732年、亡くなる一年前、筑前から都へ帰ったとき、詠んで上司に差し出した歌で、長文なので省略するが、今で言う格差問題で、アララギ派の歌人・島木赤彦が散々けなした歌であるが、憶良は死ぬ前に、陽の当らない官人の貧窮ぶりについて歌い残さずにはいられなかったのである。
三吉野
来月21日(水)、南青山会館で催される江戸小唄友の会(三桜会)で、鶴村寿々紅師匠の糸で唄わせてもらう里園志寿栄作曲の「三吉野」について、木村菊太郎氏の「芝居小唄」で調べてみた。この小唄は、通称「すし屋」と呼ばれ、浄瑠璃物三羽烏の一つとされる「義経千本桜」(他の二つは仮名手本忠臣蔵と菅原伝授手習鑑)の五段目・すし屋の段のお里のクドキを唄ったもので、比較的よく唄われる小唄である。
偶々ネットで検索したら、来月歌舞伎座の公演で「義経千本桜」の通し狂言が掛かることが分かったので、この機会に狂言について、少し調べてみる事にした。芝居は、1747年11月、竹本座で人形浄瑠璃として初演された。名題は「義経千本桜」と言うが必ずしも義経が主役ではない。義経の役目は、全体を繋ぐ糸のようなもので、ある場は知盛、ある場は忠信(実は狐)、そしてある場はいがみの権太という具合に主役が変わる。そこで夫々主役をやる役者が演技力を競う所が見所となる。壇ノ浦で討たれた筈の知盛、維盛、教経の三大将が、実はどっこい生きていたという設定である。これに義経の家来・佐藤忠信、いがみぼ権太、静御前などが絡んで、奇想天外な筋立てとなっている。
芝居の梗概:浄瑠璃の原作は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作であるが、芝居の演出は、公演毎に趣向が異なる。猿之助の宙づりには目を見張るが、来月の公演は、幸四郎、菊五郎、仁左衛門、左団次などの出演で宙づりは無い。
序 幕(鳥居前) 義経は、平家追討の恩賞として後白河法皇から「初音の鼓」を賜る。所が義経が差し出した知盛、維盛、
教経の首が偽首だったことから、義経は兄・頼朝に疑われ、都落ちする。静御前は、九州へ落ちて行く義経から「初音
の鼓」を託される。
二段目(渡海屋 大物浦) 義経は、渡海屋銀平(実は平知盛)の船で九州へ渡ろうとする。知盛は死んだと見せかけ、渡海
屋に身をやつし、平家の再興を覗っていた。知盛は義経に見破られて戦うが、義経に破れ、大碇と共に海に飛び込む。
三段目(道行初音旅) 静が、忠信(実は狐)の供で、吉野に潜んでいる義経に会いに行く道行。静の打つ鼓の音を聞いて忠
信が怪しい狐の素振りをする。
四段目(木の実) 維盛の御台所が、維盛を尋ねて吉野へ来るが、供の若侍・主馬小金吾が山中で賊に殺される。
五段目(すし屋) 釣瓶鮨の主人・弥左衛門は、もと平重盛に仕えた武士。役目の落度で切腹する所、重盛の情で助けられ、
親元へ帰って鮨屋商売。重盛の一子・維盛が、屋島の戦から熊野へ落ちて来たのに出遭い、奉公人に姿を変えさ
せ、弥助と名付けて我家に匿った。そうとは知らず弥左衛門の一人娘お里は、いつか男前の弥助に思いを寄せる。
弥左衛門も、平家の再興が成ったら、娘は宮仕えさせる積りで、娘に弥助との祝言を勧める。ところが頼朝の家来の
梶原景時が維盛詮議のため鎌倉からやって来て、維盛の人相書が村中に出回り、お里にも弥助が維盛だと判って
しまう。弥左衛門の息子でならず者のいがみの権太も、弥助が人相きの男に似ていると騒ぎ出し、生首二つを維盛と
御台所の首だといって景時に差し出す。実は主馬小金吾と自分の妻の首だった。
大 詰(川面法眼館奥庭) 九州へ落ちる筈だった義経が、川面法眼という吉野僧兵の親分の館に、一時身を隠している所
へ 本物の佐藤忠信がやって来る。忠信は、母が危篤で出羽へ帰っていたが、母の最期を看取って戻ってきたところで
ある。そこへ静も狐の忠信を連れてやってきて、狐の忠信は自分の正体を現し、「初音の鼓」の皮は自分の母狐の皮で
あると明す。義経は、狐の忠信が静のボデイガードをやってくれた褒美と言って、狐に源九郎という名と「初音の鼓」を
与える。狐は鼓を抱いて喜び勇んで飛び去ってゆく。
小唄は、五段目すし屋の段で、お里が、今宵愛しい弥助との祝言でうきうきしていたところ、弥助が維盛卿と判っては、やとえ恋焦がれて死んでも、すし屋の娘では一緒になれようかと嘆き悲しむ場面を唄っている。
小唄歌詞:「三吉野の 色珍しい草中に 迷い込んだる蝶一つ 思い初めたが恋のもと たとえ焦がれて死すればとて 鮎に愛持つ鮨桶の 締めて固めた二世の縁 二つ枕の花の里」 【註】(蝶一つ)は維盛卿のこと (鮎に愛持つ鮨桶)鮎を用いた馴れ鮨
小唄の唄い方:「思い初めたが恋のもと」から「締めて固めた二世の縁」まで、義太夫節をたっぷり聞かせる。
郷土の作家・竹原素子
2月11日(日、祭)、渋谷・ヴェントーノ トーキョーで催された2007年越後加茂郷人会に出席した。中学時代の友人に、久しぶりに逢えるかもしれないと思ったからである。子供のころ使い慣れた加茂弁も、郷里を出て使わなくなってから久しい。昭和15年、加茂から福井市へ引越した時、隣家の人から、お宅は朝鮮から来られたのですかと尋ねられて驚いたのを思い出した。郷人会の会長も、今日はイとエの区別など気にせず大いに加茂弁でおしゃべりして下さいと挨拶された。
歓談中、郷土加茂出身の作家・竹原素子さんに出会った。1927年(昭和2年)生まれと言うからもう80歳。声も大きく大変お元気だ。お会いした記念に、昨年8月出版されたノンフィクション小説「雪炎」を一冊買い求めたら、本の扉に日付入りでサインをして下さった。川端康成の小説「雪国」の舞台となった越後湯沢の近くに塩沢という町があり、この辺りを中心に昔から越後縮(えちごちじみ)という麻を素材にした高級織物の生産が盛んであった。「雪炎」という小説は、「雪ありて縮あり」と云われた、厳しい豪雪地帯の中で機を織り続けた織女のひたむきな情念を哀切に描いた作品である。
竹原素子は、今から6年前、小説「うしろ面」(顔の前と後に違った面を着けて踊る芸能で、その伝統は今では加茂にしか残っていない)を書上げたの汐に、作家から足を洗う積りだったが、1770年(江戸後期、田沼意次、賀茂真渕などが亡くなった年)、越後湯沢の縮商で、滝沢馬琴や十返舎一九などと親交のあった文人・鈴木牧之(すずきぼくし)が、40年もかけて著した名著「北陸雪譜」という当時のベストセラーを読んで感激し、この年になって再びペン執る情熱を掻き立てられと云う。JR塩沢駅の近くには、鈴木牧記念館があり、牧之に関する資料を見ることができる。
「雪炎」には、八編の小説が含まれているが、その中の一つを覗いてみよう。魚沼郡堀之内の十兵衛の家のおばば・ウメノという年老いた産婆が語る孫娘・キクノの物語である。キクノは十三の時から機を習い始め、生まれつき覚えが早く、そして今は器量よしの十七歳、婿を迎える年頃となり、十兵衛の自慢娘となった。織女にも等級があって、最上の技術を身につけた織女は、「御機屋(おはたや)」と呼ばれて、朝廷や幕府の高貴な方々の注文の縮を織ることが許され、村人達からも一目置かれた。キクノはその年、「御機屋」になることを認められたのであった。
キクノは娘盛り、しかも情に厚い女であった。盆踊りで音頭とりを勤めた義助という粋な若者に、何時しか思いを募らせるようになった。高貴なお方が着る縮を織るときは、身を浄め、神聖な「御機屋」に篭って一心不乱に機を織らねばならない厳しい掟があった。男と通ずるなどしたら神様の罰をうけると伝えられていた。キクノはその掟を破って、生涯一度だけ、「御機屋」を抜け出し、好き合った義助に命がけで体を任せた。だが義助は、春の雪崩れに打たれて敢え無く死んでしまった。それを知ってキクノは出刃包丁でお腹を突き刺して死のうとするが、おばばからお前は身篭っていると告げられて生きる決心をする。そして数日後、雪の下から掘り出された義助の遺体を飾って、婚礼と葬式を同時にやるキクノの鬼気迫る綿帽子姿の哀れさに、集まった人々は皆涙したという。
あれから十年たって、おばばも七十と老い先短い年となったので、今の内にと孫娘・キクノのことを語ったのであった。今は、キクノの両親も他界したが、キクノは立派に立ち直り、その後、塩沢から婿養子を迎え、だんだん義助に似てきた息子・大助に目を細めながら、村の娘たちの縮の指南役で幸せに暮らすキクノであった。
弓削の道鏡
江戸川柳に、「道鏡は坐ると膝が三つ出来」というバレ句があり、悪僧の代表にされてしまっているが、戦前は、日本史上の三大悪人といえば、道鏡、足利尊氏、吉良上野と相場が決まっていた。そのNo.1に挙げられる道鏡と言えば、46代孝謙天皇(女帝 父は聖武天皇、母は光明皇后 はじめて女性で皇太子になった皇族)の寵愛をよいことに、僧侶の身でありながら法王の位にまで上り、その挙句、皇位まで覗った稀代の悪僧であると学校で教わった。これは、藤原氏が作らせた「続日本紀」という歴史書に基づいているのであるが、事実はやや違っていて、道鏡というのは、偶々孝謙女帝に寵愛され、宮廷の権力闘争の渦中で振り回された一人のエリート僧に過ぎなかったというのが真実のようである。
奈良時代、河内国弓削郷(現在の八尾市)に、俗姓弓削連(ゆげのむらじ)という賢い子が出生した。長ずるに及んで仏教の修行を志し、名僧・良弁の弟子となって名を道鏡と改め、刻苦して宗奥を極め、サンスクリット(古代インド語)にも精通し、更に医術や薬草の知識をも身につけたという。この時代の僧は、殆どが公僧(国家公務員)で、中でも道鏡はエリート中のエリートであったようだ。
孝謙女帝が四十四歳の時、重い病に罹り、朝廷では、全国から名医、名僧を招き、医術、祈祷の限りを尽くしたが一向に効き目が無かった。この時、良弁の弟子の道鏡も召されて色々秘法を行った処、女帝の病が忽ち平癒したという。このため女帝が大変喜ばれ、道鏡を厚く信任されるようになった。かくして道鏡は一介の僧から一躍宮廷の重要人物となり、遂には女帝の相談相手として、国の政治にまでタッチするようになった。
この頃、宮廷内では、孝謙女帝の叔父に当る藤原仲麻呂が総てを牛耳っていたが、皇太子の指名を巡り女帝と争った。757年3月、女帝が立てた道祖王(ふなどのおう)を無理やり辞めさせ、自分が育てた大炊王(おおいのおう)を皇太子にするという暴挙を行った。その年の7月、橘奈良麻呂が仲麻呂を打倒しようと事件を起こそうとしたが、事前に発覚し、加担した者443人が逮捕され、死罪又は流罪に処せられた。翌年8月、孝謙女帝は、譲位を強いられ、47代淳仁天皇が即位した。この時、仲麻呂は天皇より恵美押勝という称号を賜った。760年6月、孝謙女帝の母・光明皇太后が崩御された。
孝謙上皇は、仲麻呂の最大の庇護者であった光明皇太后が亡くなると、大っぴらに道鏡を寵愛するようになった。道鏡と孝謙上皇の男女関係がどの程度のものであったかは推測するしかないが、余りの親密さに恵美押勝が淳仁天皇の口から、いい加減になさいと嗜めさせた。孝謙女帝は、上皇になっても、宮廷の実権は、忠臣・吉備真備(きびのまきび 学者、兵学者)に支えられて、がっちりと握っていた。天皇の苦言を受け入れた振りをして、押勝が新羅出兵に気を取られている隙にクーデタを起こす。
764年9月、渡来人の子孫の豪族たちが皆上皇側に味方し、押勝軍は、真備の指揮する上皇軍に破られ、押勝は近江の国で妻子4人、一族郎党34人と共に皆捕らえられ、琵琶湖畔で斬られた。淳仁帝も捕らえられ淡路に流されたが、流配中33歳の若さで薨去、暗殺の疑いが濃い。淳仁帝のあと上皇が再び皇位につき、称徳天皇となった。
称徳女帝が皇位を道鏡に継がせたいと願ったのはありそうなことである。769年9月、女帝の許に、九州宇佐八幡から「道鏡に皇位を継がすべし」という神託が伝えられた。これは上皇の息の掛かった者が仕組んだもの。和気清麻呂がこれを確認するため勅使として派遣された。ところが、清麻呂は帰って来て「皇族をもって皇位を継がすべし」と復命したため、和気穢麻呂(きたなまろ)と改名させられて大隈国(現在の鹿児島県)に流された。称徳女帝の道鏡愛しの企てはボロを出して終ったが、お陰で道鏡はすっかり悪者にされてしまったという訳である。770年8月、称徳女帝が60歳で崩御し、光仁帝が即位。道鏡は下野の薬師寺に左遷され、2年後に死んだ。
大伴旅人
山上憶良と共に万葉中期の代表的歌人とされる大伴旅人は、天智四年(665)、古事記の編纂で知られた太安麻侶を父とし、飛鳥の地で生まれた。672年、旅人8歳の時、壬申の乱が勃発。父・安麻呂は吉野方として参戦、大海人(おおあま)軍の勝利に貢献した。705年、父・安麻呂が大納言に昇進し太宰師となった。714年に父を失う。718年、中納言に昇進。この年長男・家持誕生。720年3月、征隼人大将軍に任ぜられ、九州に赴任したが、同年8月、不比等の急逝後、京に呼び戻された。727年末、太宰師に任ぜられ大宰府に赴任、当時筑前守の山上憶良と交流を深める。729年2月に起きた長屋王の変は、北九州に赴任中の旅人に強い衝撃を与えた。730年10月、旅人は大納言に昇進して大宰府から都に帰り、翌年7月、その生涯を閉じた。
哲学者・梅原猛氏は、旅人をロマンチストと評しているが、万葉集には旅人の歌は56首(一説では77首)ほど収録されている。大宰府赴任前2首、大宰府赴任中39首、帰京途中の旅で10首、帰京後5首、計56首で、太宰府赴任が62歳の時だから晩作に思えるが、旅人は人麻呂や赤人と違って宮廷歌人ではなく、武門の家柄なので、若い頃の歌は余り遺されていないのではなかろうか。
旅人の大宰府赴任中、最愛の妻、大伴郎女(おおともいらつめ)が病で亡くなった。その時、旅人の詠んだ歌には胸を打たれる。「愛(うつく)しき人の纏(ま)きてし敷布(しきたへ)の我が手枕(たまくら)を纏(ま)く人あらめや」(3-438)。通訳【愛しい人が枕にした私の腕(かいな)を亡き妻以外に枕にする人がいるであろうか。いるわけがない】
旅人は、無類の酒好きであったらしく、酒の賛歌を13首も作っている。その内の一首。「中々に人と非ずは酒壷(さかつぼ)になりにてしかも酒に染みなむ」(3-343)。通訳【なまじっかひとであるよりは、いっそ酒壷になってしまいたい。何時も酒びたりでいられようから。】
旅人が大宰府赴任を解かれて都へ戻る途中の歌。「我妹子(あぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき」3-446 通訳【愛しい妻が往きに見た鞆の浦のむろの木は変わらずにあるが、見た人はもういない。】