万葉後期の代表的歌人・大伴家持 | 八海老人日記

万葉後期の代表的歌人・大伴家持

         若き日の大伴家持 《若き日の大伴家持》

 〔大伴家持と万葉集〕 大伴家持(718~785)は、万葉の後期を代表する歌人である。しかも、万葉集を今日私たちが目にする形に再編纂し、既に出来ていた巻1、巻2、巻9に、膨大の数の追加をし、20巻4,500余首の歌集に纏めたのも彼であるとされている。万葉集は、日本が世界に誇る最古の歌集であり、奈良、平安時代に生きた人々の生き様を生き生きと表現している。しかし、哲学者・梅原猛氏は、この万葉集を単なる文学作品と見てはならないと警告している。万葉集の再編に際し、家持によってこの歌集に込められた並々ならぬ意図が隠されていると感じられるからである。その意図が何であったかは、家持が辿った時代の足跡から次第に明らかにされてゆく。


 〔幼年期の家持〕 家持は、大伴旅人(665~730)の長男で、妾腹の子であるが、大伴氏の家督を継ぐべき人物として、旅人の正妻・大伴郎女(いらつめ)によって大切に育てられた。しかし、大伴郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別し、その後は、旅人の妹・坂上郎女が家持の教育係りを自ら買って出、家持は、この美しい中年女性である叔母によってみっちりと教養を身につけさせられた。家持16歳のとき、坂上郎女から、「月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋し君に逢えるかも」と詠まれたのに和して、すぐさま「ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引おもほゆるかも」と返したという。坂上郎女は、家持の未来に大きな期待と父大納言を失った後の宮仕に一抹の不安を抱いた。


 〔藤原氏の専横〕 720年、臣下の身で天皇の外戚となり、宮廷内の権力を欲しいままにしていた右大臣・藤原不比等が急死し、そのあと皇族の長屋王が右大臣となったが、長屋王は藤原氏の専横を押さえようとしたため、藤原武智麻呂他4卿によって、罪無くして殺されるという長屋王の事件が729年に起きた。そのとき家持の父旅人は、偶々任地の大宰府にいたが勅命によって都に呼び戻され翌年67歳で没した。このあと、藤原4卿が次々と疫病で死に、地震や旱魃などがあり、人々は長屋王の祟りだと言って恐れた。こんな時代を見ながら、家持は成長していった。


 〔内舎人(うちとねり)に任官〕 740年、家持23歳のとき内舎人に任官し、官人としての生活を始めた。内舎人というのは中務部(なかつかさ)に属し、天皇に近侍して、護衛、雑使などに奉仕する役目で、有力貴族の子弟のなかから選ばれたというから、言わばエリートコースという訳。家持が官途について間もなく、九州大宰府で藤原広嗣が反乱を起こす。世の中はまだまだ騒がしかった。聖武天皇が大仏建立を発願されたのはこの頃であった。(以下次回)