法隆寺ー1(今の法隆寺は聖徳太子が建てたものではない)
(中門から五重搭を望む) 梅原猛氏の法隆寺論を読み始めた。梅原氏の哲学的思考は、世間の常識に疑問を持つことから始まる。法隆寺は、世界最古の木造建築として世界文化遺産に登録され、日本に残る仏教文化として、世界に誇る遺産であることは、常識として認められることであるが、では一体、誰が、何時、何のためにこの寺を建てたのかということが現在判っていない。これが大きな謎に包まれているのである。
古事記や日本書紀などの歴史書を調べても、何時、誰が、何の為にこの寺を建てたのかという記録は全く無い。ただ日本書紀に、670年、落雷により総ての堂塔を焼失したとの記述があるが、その後の再建については全く記載が無いのも不思議である。今の我々が目にする法隆寺の立派な堂塔を、一体誰が再建したのだろうか。聖徳太子の子孫では有り得ない。梅原氏は、歴史に書かれていないところに真実が隠されていると推論する。
凡そ日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によれば552年(別の歴史書では538年)、29代欽明天皇(聖徳太子の祖父)の13年に、百済の聖明王が釈迦仏金銅像や経論を天皇に贈ったのが始まりとされているが、元々古代日本の天皇家や豪族の先祖は、朝鮮から渡来した部族のようだから、蘇我氏などは、4世紀ころから百済を通じ既に仏教を受け入れていたと見られる。
日本書紀によれば、百済から釈迦の仏像とお経を贈られた欽明天皇が、「西の野蛮人がくれた仏像は見た事が無い顔をしている。敬うべきか否か」と群臣に問うたところ、蘇我氏は崇仏、物部氏は排仏と鋭く対立し、結局蘇我氏が物部氏を滅ぼしてけりがついた。このとき、蘇我軍に厩戸皇子(うまやどのみこ 後の聖徳太子)が参戦して手柄をたてた。こんな事変があって、仏教は朝廷の間で急速に広まった。しかし、当時の有力者たちが仏を崇めたのは、純粋な宗教心からではなく、死んでから極楽へ行ける様にとか、災厄が来ないようにとか、仏像の呪術的な力にすがるという目的であった。こうして有力氏族の間では,草堂を建てて仏像を祀り、氏族の幸せを祈るようになった。そして用明天皇(聖徳太子の父)の代に仏教が始めて公認された。
法隆寺は、始めは斑鳩寺と言って、用明天皇が亡くなられた後の590年頃、仏教に熱心だった聖徳太子が、氏寺として小さな非公認の寺を建てたのが始まりだったようだ。607年に官寺として公認された。622年、聖徳太子がこの世を去り、643年、聖徳太子の第一皇子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が皇位を覗うのではないかと疑心を抱いた蘇我入鹿が皇子を襲い、
一族総て斑鳩寺で自刃して果てた。645年、蘇我氏もまた、大化の改新で、中大兄皇子と組んだ中臣(後に藤原)鎌足によって滅ぼされた。670年に火災で焼けた法隆寺を再建したのは、その後朝廷の実権を握った藤原不比等であったらしい。では、不比等が何のために莫大な財力を投じて法隆寺を再建したのか。それについての梅原氏の推論は次回に。