山上憶良
(秋の七草) 大伴旅人と並んで奈良時代を生きた万葉の代表的歌人・山上憶良 (660~733)は、近江の生まれらしいが、生まれた状況などよく分からない。先祖は百済系渡来人という説もある。702年6月、43歳の時、遣唐使に随行して唐に渡り、漢詩、漢文、儒教など唐文化を学び707年7月、帰国。716年4月,伯 耆守に任ぜらる。721年、皇太子・首皇子(おびとのみこ のちの聖武天皇)の侍講を拝命。726年、筑前守として九州に赴任。728年春、大伴旅人が太宰師として着任して来たので歌友として親交を結ぶ。732年帰京。733年、病気で他界、享年74歳。
万葉集には、山上憶良の歌は、凡そ70首ほど収録されているが、その内の半数以上が、筑前守時代、大宰府の大伴旅人らと歌の道で交わっていた頃の作品で、優れた歌が多く、生活を滲ませた歌に特色がある。「宴を罹る歌」、「子らを思う唄」、「梅の花の歌」、「秋の七草」、「貧窮問答歌」など、憶良らしい歌であるが、憶良の歌は、庶民性の故に、後世の歌壇からは、あまり評価されなかった。江戸時代になって、山上憶良の価値を見出したのは、賀茂真淵である。憶良は、官人としての栄達には恵まれなかったが、農民たちの苦しみや、友人たちの悲しみなどを共感することが出来た。賀茂真淵は、万葉集の研究を通じて、上代人の只管な人間感情の中に日本人の魂の伝統を発見した。
宴を罹る歌は、「憶良らは 今は罹らむ子泣くらむ それその母も吾を待らむぞ」(3-337)。 728年頃、大宰府の旅人邸における宴での歌のようだ。憶良らしい軽い歌である。
子らを思う歌は、「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠(やすい)し為さぬ」(5-802)。【通訳】:瓜を食えば、子供にも食わせてやりたいと思う。栗を食べれば、まして子供のことが偲ばれる。子供というものは一体どこから来たのだろうか。子供の面影が目の前にちらついて、夜も安眠できない。この歌の反歌が、「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉(たま)も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」
梅の花の歌は、「春されば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春ひ暮らさむ」(5-818)。【通訳】:春になれば、真っ先に咲く我家の梅の花を、独り眺めながら、春の日を過ごすとしようか。730年1月、大宰府の旅人邸における梅見の宴詠んだ歌。旅人は、その年10月、大納言に昇進して都に帰り、翌年7月、67歳の生涯を終えた。
秋の七草は二首、「秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数ふれば七種(ななくさ)の花」()8-1537 及び「萩の花 おばな葛花なでしこの花 をみなへし また藤袴朝貌の花」(8-1538)。通訳するまでもないが、最後の朝貌は今の朝顔ではなく、桔梗のことである。
貧窮問答歌は、憶良の晩年、732年、亡くなる一年前、筑前から都へ帰ったとき、詠んで上司に差し出した歌で、長文なので省略するが、今で言う格差問題で、アララギ派の歌人・島木赤彦が散々けなした歌であるが、憶良は死ぬ前に、陽の当らない官人の貧窮ぶりについて歌い残さずにはいられなかったのである。