小唄人生
今度、江戸小唄友の会で、「留めても帰る」を唄うことになった。この唄は、明治の文豪・尾崎紅葉の作詞、二世清元梅吉の作曲である。
歌詞は、「留めても帰る 宥めても 帰る帰るの三ひょこひょこ とんだ不首尾の裏田圃 振られついでの 夜の雨」。この唄は、明治三十年頃、当時若くして文壇の大御所になった紅葉が、友人らと一緒に、新橋の竹富久井という料亭で遊んだとき作詞し、一緒にいた二世清元梅吉がその場で作曲したという江戸小唄である。
尾崎紅葉(1867~1903 慶応三年~明治三十六年)は、江戸芝中門町の生まれ、父は吉原の幇間、頭が良かったと見えて明治二十年、帝大法科に入学し、間もなく文科に転じ、在校二年で中退して文壇に入った。坪内逍遥を先輩と仰いで文学に励み、「硯友社」を興し、泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉などの新人を同人に加えた。坪内逍遥は、紅葉らの小説を、都々逸小節などと言ってからかったが、新しい口語体の小説は、瞬く間に一世を風靡し、彼らは一躍文壇の寵児となった。明治三十年、大作「金色夜叉」を読売新聞に連載し始め、明治三十六年まで続いたが、未完の儘、惜しくも僅か37歳で胃癌のため亡くなった。
この小唄は、紅葉がまだ駆け出しの頃、吉原へ遊びに行って、お目当ての妓に振られ、仲居がいくら留めても、どんなになだめても、すっかりお冠になって帰る帰るを連発。とうとう帰って来てしまった。途中、浅草田圃の辺りで雨にまで降られてしまった、という若い頃の想出を唄ったもの。二世梅吉の節付けも中々良く出来ており、「とんだ不首尾の裏田圃」で新内節を利かせ、江戸小唄らしい小唄になっている。
余談であるが、来年1月17日(水)、熱海のお宮の松の前(雨天のときは起雲閣)で、「金色夜叉」寸劇や芸妓連の舞が披露される。また、2月28日(水)には、逍遥忌記念祭の催しが起雲閣で予定されている。
日本古代史
7月8日のブログで、仁徳天皇の虚像について書いた。私達が学校で習ったことは、実は虚像であった。日本書紀で仁徳天皇陵とされている日本の最大古墳・大阪府堺市の大山(だいせん)古墳の主にも、実は疑問がある。十六代仁徳天皇の在位は、313~399年であるから、仁徳天皇陵とされる大山古墳の建設は、五世紀前半と考えられるが、これに疑問が呈されている。
同志社大学名誉教授・考古学者・森 浩一氏の「日本の古代」によると、明治5年に大山古墳の墳丘の一部が崩れて竪穴式石室が現れ、長持型石棺、金属製甲冑、ガラス器、刀剣などが出土し、また誉田丸山古墳から馬具、須恵器などが出土しており、その詳細な絵図が残されている。これらを詳しく調べた結果、
①金属製甲冑は、金銅製横矧板鋲留短甲といわれるもので、金メッキが施されており、メッキ技術は六世紀ころ朝鮮半島から渡来したもので、五世紀前半にはまだ無かった。
②横矧板鋲留短甲は、細い鋼板を鋲で留めて作り、乗馬用に軽く作った鎧で、これも最新式で五世紀前半には無かった。
③馬具として精巧な透かし彫りを施した鞍が誉田丸山古墳から出土しているが、乗馬が普及したのは古墳時代後期、六世紀になってからである。
④明治時代、大山古墳が盗掘された際出土し、現在アメリカのボストン美術館に展示されている細線式獣帯鏡及び金銅製環頭は、埋葬時代を測定する重要な手懸りとなると考えられるが、これは六世紀のものと言われている。
以上により、大山古墳が建設されたのは、専門家の推定に依れば、古墳時代中期以降、五世紀後半~六世紀とされ、外国からの使節や渡来人に日本の国威を見せ付けるために建設されたのではないかと言われている。
現在、宮内庁の管理下にあり、歴代天皇陵とされている古墳の中で、確かにこれは○○天皇の陵であると断言できるのは、数えるほどしかないと言うのは事実である。これら天皇陵とされている古墳については、宮内庁が学術調査に立ち入ることを許さないため、日本の考古学の進歩と発展が阻害されていると前に書いた。
作家の黒岩重吾氏は、古代史の学者も及ばないほど多くの文献を消化し、その上、小説家としての鋭い洞察力で、大山古墳の主は、二十一代雄略天皇(在位457~479年)ではないかと推理している。また、「逆説の日本史」の著者、井沢元彦氏はその著書の中で、宮内庁が天皇陵の学術調査を認めたがらない本当の理由は、天皇家の先祖が朝鮮から来た豪族であることを知られたくないからだと言っている。 宮内庁は国民からの税金を使って天皇陵を管理しているのだから、一日も早く菊のカーテンを取り去って天皇陵の実態を国民の前にディスクローズすべきである。
万葉の世界
人麻呂のイメージについて一言で言うとすれば、「多恨の詩人」という言葉が一番ふさわしいようだ。10月30日のブログに、「人麻呂の相聞歌」というテーマで、晩年の任地の石見で娶った妻・依羅娘子(よさみのおとめ)との相聞の歌について書いたが、人麻呂は、この妻にも看取られず、独り石見の水底に沈む運命にあった。
人麻呂が、多分二十(はたち)そこそこの若さで、近江朝廷に出仕し出した頃、後の持統女帝に宮廷御用歌人として見出される前ののことである。額田王が女流歌人として活躍し、大海人皇子(おおあまのみこ)の寵愛を受けていた頃、人麻呂は一人の若く美しい采女(地方の豪族から差し出された後宮の女)に思いを寄せた。その女の名は分からないが、人麻呂は歌の中で「吉備の津の采女」と呼んでいる。この女性は、年の違う夫の子と間違いを犯し、発覚を恐れて川に身を投げ自害してしまった。このとき人麻呂は、朝露のように儚い片思いの恋を歌った長歌「秋山のしたへる妹・・・(217)」及び短歌二首(218,219)を残している。
持統八年、(694年)、都が飛鳥から藤原京に遷った。多くの貴族、官人達が新しい都に移った。それ絵に伴い諸氏の娘や采女達の出仕が促され、宮廷はまさに、公私の社交の場と化した。人麻呂はこの頃持統女帝に仕え、紀伊や伊勢などへの行幸によくお供をした。この頃人麻呂の歳は、四十台半ばと推定されるが、一人の女官と恋をし、遂にこの女を妻とした。人麻呂は深くこの女を愛した。ところが人麻呂が旅に出ている間に、この女が急病で死んでしまった。使いの者からこの知らせを聞いて、人麻呂が泣血哀慟して作ったという長歌「天飛ぶや・・・(207)」と短歌二首(208,209)が挽歌の部に収められている。この女性は、万葉学者が「軽の里の女人」と呼んでいるが、本当の名は分からない。
万葉集巻四に相聞の歌として載せられている次の歌は、万葉学の大先達・武田祐吉氏によると、人麻呂が持統女帝の供ををして紀伊の国・熊野を訪れ、「軽の里の女人」に恋をし始めた頃の歌ではないかと言われている。
「み熊野の浦の浜木綿百重(ももへ)なす心は念(も)へど直(ただ)に相(あ)わぬかも(496)」
(熊野の海岸の浜木綿の葉が沢山重なっているように 私も何べんも貴女のことを思っているが直接会うことは出来ないのだ)
「古にありけむ人もわがごとく妹に恋いつつ寝ねがてずけむ(497)」
(昔の人も私のように妻に恋つつ眠れない夜をを過ごしたことであろうよ)
若き日の吉備の津の采女への片思い、軽の里出身の女官との恋、そして最後は、六十台で石見の国で、妻を残して死ななければならなかった宿命。多恨の詩人と言うべきであろう。
身辺雑記
今朝のフジテレビ・報道2001を見て感じたこと。必修科目洩れに関する伊吹文部科学大臣の発言で、社会人として世界史や日本史を学ぶことは大切なことで、高校だけで社会人になる人も多いのだから、学校でちゃんと教えることは必要なことであると申された。
それならば、日本史に関して言いたいことがある。日本史を教えることを文部科学省が学校に指導する前に、何故日本古代史の実像を隠すようなことを放って置くのかと言いたい。私が声を大にして言いたいのは、宮内庁が、日本の考古学者に対し、天皇陵の学術調査を許さないと言う現実である。飛鳥時代以前の天皇陵を学術調査すれば、日本の古代史の記述が変わるかもしれないというのに、これは何ということかと思う。これは、私が言っているのではなく、れっきとした考古学者が言っていることなのだ。外国にこんな例はない。
人は、世界の歴史や自分の国の歴史を学んで始めて自己というものを知る。そこから個人の自我というものが確立される。個人が責任を持って行動が出来るのは、自我の確立があるからである。民主主義も自由主義も自己の確立があって成り立つ。それなのに日本人は真実の歴史から目隠しされているのだ。宮内庁にこんな暴挙をゆるしておいて、何が日本史の学習指導か。こんなことを野放しにしておくマスコミもおかしい。高松塚古墳の壁画に黴が出たと言って大騒ぎするくせに、こんな大事なことに眼をつぶっているとは。天皇陵の学術調査を宮内庁が許さないのは、どうしても隠したい事情があるのだと疑いたくなる。
日本古代史
井沢元彦の「逆説の日本史」を読むと、面白いことが、一杯書いてある。未だ全部読み切った訳ではないが、日本古代史の辺りを読み始めて、合点するところが多い。例えば、聖徳太子の人物像について、今年の8月3日の私のブログに若干書いたが、井沢元彦の「逆説の日本史」には、更に踏み込んだ事が書いてある。
571年、29代欽明天皇は、死の床で皇太子(後の敏達天皇)に、朝鮮に出兵して新羅に奪われた任那(みまな)を取り返せと遺言して死んだ。実は、朝鮮の任那は、天皇家の故郷の国であったのだ。30代敏達天皇も、弟の橘豊日皇子(たちばなとよひのみこ 後の31代用明天皇・聖徳太子の父)に、同じ遺言をして死んだ。用明天皇の妹・額田部皇女(ぬかたべのみこ 後の推古女帝)が、異母兄の敏達天皇と結婚して竹田皇子を生んだ。この頃の天皇家の系図はややこしい。異母兄弟姉妹の結婚は認められたのである。用明天皇の次に異母弟の32代崇峻天皇が即位した。この代で初めて朝鮮出兵が具体化し、591年、崇峻天皇は、任那奪回のため二万の軍勢を北九州に集結させた。ところが崇峻天皇が何者かに暗殺されたため、朝鮮出兵計画は中止となった。
日本書紀には、その頃天皇家をないがしろにしていた曽我馬子が、秘かに東漢直駒(やまとあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を 拭し奉ったと書いてあり、更に東漢直駒は、馬子の娘を盗んだため馬子に殺されたと書いてある。蘇我馬子が証人を消すために、天皇拭逆の下手人を処刑したと言うならありそうなことだが、娘を盗られた私憤を以って東漢直駒を殺したなどと、公の歴史書にこんな書き方をされるのはおかしい。
暗殺された崇峻天皇の後継者として、最も有力だったのは聖徳太子であった。だが、聖徳太子は遂に天皇にはなれなかった。それは、叔母に当る額田部皇女(後の推古女帝)が自分のお腹を痛めた息子の竹田皇子を天皇にしたいという強い意志が働らいたからであった。崇峻天皇の暗殺は、額田部皇女の陰謀だったのだ。崇峻天皇暗殺の本当の黒幕は、聖徳太子なのだという疑惑を振り撒いたのだという。しかし、竹田皇子は病身で早死した。すると、額田部皇女は自ら皇位を継ぎ、日本最初の女帝・33代推古天皇となった。
聖徳太子は、世間から叔父殺しと白い目で見られ、天皇にもなれず、暫くの間、強度のノイローゼとなり、療養のため伊予の道後温泉へ行っていたという。そこで漸く病を癒し、政界に復帰したが、推古天皇が長生きしたため、それより先に没した。推古女帝の在位は36年に及び、息子・竹田皇子の墓に一緒に葬ってくれと遺言して死んだ。現在飛鳥にある植山古墳は、推古女帝と竹田皇子の合葬された墓と見られている。
小唄人生
私にとって、今年の小唄行事の一つの山場であった、10月27日の「夜雨会」(三越劇場)出演が無事終わった。出し物は「曽根崎」と「つれてのかんせ」で、出来映えは、あまり良かったとは言えないが、まあまあ気分は悪くなかった。
「夜雨会」とは、絵も描けば、書も能くし、俳句と小唄が好きで、とりわけ小唄の作詞家として吉田草紙庵とコンビで数々の名曲を残して昭和三十一年に亡くなった十代目団十郎を偲んで、その一周忌に伊東深水、遠藤為春、田中青滋等によって始められた由緒ある会である。現在は、小唄界の大御所・上村幸以氏が会長を勤めておられるが、この会にゲスト出演させて貰えたということは、私にとって又とない栄誉であったと思う。
当日は、正会員及びゲスト会員の小唄三十五番、プロ師匠達の特別出演による小唄十六番、小唄振りの踊りが四番で、途中、上村会長及び十二代目団十郎丈の挨拶があり、最後に手締と撒き手拭があって散会は午後七時頃、文字通り盛会であった。鶴村寿々紅社中の人達や湯ヶ島温泉・白壁荘旅館の若女将も応援に来てくれ、それに普段私の小唄の会などに顔を出したこともない上さんまで覗きに来てくれた。
私の出番は十九番目で、十二時に楽屋入りして、今日の糸方の鶴村寿々豊師匠に一回当って貰ったものの、お茶も飲まずに舞台に出たものだから、喉がからから。声が出るかどうか心配だった。緞帳がするすると上がった。すると「待ってました!」と声が掛かった。唄いだしたら、途中で喉が詰まって慌てた。どうやら唄い終わったら「大当たり!」と又声が掛かった。こんなに声を掛けられたのは初めてだ。あとで分かったが、声を掛けてくれたのは、鶴村寿々紅社中の山岡さんであった。今度お会いしたらお礼を言わねばなるまいと思った。
出番が終わってほっとしていたら、二時頃、友達の太田君が花束を持ってお祝いに来てくれた。太田君は、元同じ会社の同僚で、大学も同じ、山の会も一緒で、私が一番良く付き合っている友である。今日は別の会があって、それが終わってから駆けつけてくれたのだが、残念ながら私の出番は終わっていた。そこで三越の近くの「好秀」(小唄の唄える飲み屋さん)へご案内して一杯飲んで頂き、ここのご主人・石岡さんに弾いてもらって、もう一度「曽根崎」を唄ってやったら、来た甲斐があったと言って喜んでくれた。二人とも千鳥足で帰った。
万葉の世界
柿本人麻呂は、天武天皇の妃・讃良皇女(さららのみこ 後の持統女帝)に作歌の才能を見出され、宮廷御用歌人としての地位を確立した。人麻呂の歌は、万葉集に80首以上載せられているが、作歌の年代が分からないものが多い。作歌の時期が分かっている中で、最初に万葉集に現れるのは、689年の草壁太子の死を悼む挽歌である。686年に天武天皇が病で崩御されて間もなく嫡子で皇太子の草薙が、即位することもないまま、689年4月に、28歳の若さで急逝した。この時、皇后の命で作歌したのがこの挽歌である。
持統女帝は、夫・大海人皇子と共に壬申の乱を戦って勝利した思い出の吉野離宮を度々訪れた。690年2月にも人麻呂を伴って吉野を訪れた際、人麻呂に命じて有名な「やすみししわが大王の・・・・」(1-36~39)の儀礼歌(新築した宮殿を寿ぐ長歌、反歌)を作らせている。
柿本人麻呂は、宮廷御用歌人として、儀礼的寿歌や挽歌を沢山作ったが、これ等の作歌は、いわば人麻呂の公務としての仕事であって、人麻呂らしい真価を発揮したのは、相聞歌、旅の歌、雑歌(身辺雑事)などであろう。旅の歌以下は別の機会に譲る。
当時の宮廷の雰囲気は、王族、貴族の子女、貴公子、地方豪族から宮廷に貢がされた采女(うねめ 後宮に奉仕する女官)達の華やかな社交場で、恋愛沙汰は日常茶飯事であった。しかし人麻呂は、優れた相聞歌を残しているが、プレイボーイではなかったらしい。人麻呂が任地の石見で妻を娶ったのは、恐らく晩年に近かったのではないか。妻の名は、依羅娘子(よさみのおとめ)といい、地方豪族の娘で妻問い婚であった。人麻呂が公務のため、妻と別れて旅に出るときに歌った相聞歌が万葉集巻二に載せられている。
「夏草の思いし萎えて偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山」(131)
(夏草のようにぐったりと萎えて私を思い偲んでいるであろう我が妻の居る門が見たい。山よ平らになれ。)
「石見のや 高角山(たかつのやま)の木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか」(132)
(石見の高角山の木の間から、私が振った袖を妻がみただろうか。)
「笹の葉は み山も清(さや)にさやげども 我は妹思う 別れ来ぬれば」(133)
(山全体がざわめくほどに笹の葉が騒ぐ中で、私は妻を思う。別れてきたのだから。)
儀礼歌には見られない人麻呂の生々しい思いが吐露されている。
小唄人生
12月16日(土)、グランドアーク半蔵門で催される胡初奈会の忘年会で、「蜆川」を唄うことになった。この小唄は、小野金次郎作詞、中山小十郎作曲、昭和36年3月開曲の芝居小唄で、近松心中物の傑作「心中天の網島」(1720年大阪竹本座で上演された人形浄瑠璃)の中の「河庄の場」から題材をとったものである。
「心中天の網島」の紙屋治兵衛と曽根崎北の新地の遊女を題材にした小唄は幾つもあり、5月28日のブログに書いた草紙庵の「網島心中」もその内の一つで、この小唄は、万策尽きた冶兵衛と小春が、手に手を取り合って死にに行く最後の道行きの場面を唄ったもの。
9月2日のブログに書いた千紫千恵作曲の「二年越し」も同様、「小春治兵衛炬燵の段」から題材を取り、園八節に堪能な千紫千恵が、園八の名曲の手を取り入れて作曲したもので、昭和の名曲と称えられた。
今度唄わせてもらえる「蜆川」の歌詞は、「蜆川渡らぬ覚悟してさえに つい踏み迷う煩悩の 義理と情けの途二つ ”侍客で河庄方 浮かれぞめきの灯の陰で 小春は泣いているそうな 後ろ髪引くや十夜の鐘の音」。
あらましは、遊女・小春が、治兵衛の女房おさんに頼まれて、心ならずも治兵衛に愛想尽かしをする。治兵衛は、可愛さ余って憎さ百倍、関の孫六の刀を抜いて小春を殺すと言うが、兄の孫右衛門に止められる。叔父からは、もう小春には会わないと誓詞を書かされ、蜆川(廓の近くの川)は二度と渡らないと覚悟はしたものの、煩悩の迷いで、義理と情けの途を踏み違い、ふらふらと小春のいる河庄に来てしまった。そして、あるお大尽に身請けされることになった小春を連れ出し、お寺の十夜の念仏の鐘を聞きながら死にに行くのであった。
作曲の中山小十郎は長唄系であるが、しっとりとした節付けで、先代本木寿以家元が唄っているのを聴いていると、初代鴈冶郎の舞台を見ているような気分になる。
阿部謹也の
前回のブログで阿部謹也の著書「日本人はいかに生きるべきか」の中に出てくる二つのシステムについて書いたが、少し分かり難い点があったのではないかと思い、区立図書館から借りてきた本を、このまま返してしまうのでは、若干心残りなので、もう少し掘り下げてみることにした。
阿部謹也が云う「世間」という言葉で現される歴史的伝統的システムについて考えると、私たちはよく「日本の社会」といういいかたをするが、「社会」と言う言葉は、明治10年頃に翻訳語として生まれてきたもので、それ以前の言葉で、強いて「社会」と言う言葉に最も近い言葉といえば「世間」という言葉しか無かった。「世間」と言う言葉は、人間関係の全てを含む極めて幅の広い概念で、それに向き合う人の姿は千差万別である。例えば、日本人の多くは、出産と言えば安産のお守り、子供が学校の試験を受けるようになれば入学祈願、結婚は神前結婚、お正月には家内安全、商売繁盛を祈って初詣、戦地へ行くといえば千人針、日本中お祭りでワッショイワッショイと、こういった神信心の中で生きている。また私たちは、お中元、お歳暮、年賀状、お葬式、婚礼など、人間関係にしょっちゅう気を使って生きている。これらは全て「世間」という歴史的伝統的システムの中での生き方と言える。
ヨーロッパでは、12世紀頃から、人が個人に目覚めるようになって、「世間」という非合理的な義理人情の世界が無くなったが、日本ではまだ多くの人が「世間」を引きずって生きている。だから今の欧米人には、日本人の行動で理解し難いもが多い。神信心や色んな気使いもそうだが、例えば、バレンタインの「義理チョコ」とか、日常会話でよく使う「よろしく」などもその類である。
阿部謹也の云うもう一つのシステム、即ち近代化のシステムについてであるが、私たちは義理人情の世界に住んでいると同時に、近代化のシステムの中にも住んでいる。例えばブログをやるとか、インターネットで資料を収集するとか、図書館の蔵書を検索するとか、デジカメで写真をとったり、DVDで家にいながら好きな映画を見たりする。近代化はますます進む。携帯電話、電力線カラノインターネット、先端医療、核開発等々、これから何が出てくるか判らない。1億年前の化石植物と全く同じ植物が地球上に現存していると言う植物の世界に比べて、人間の世界が如何にもの凄いスピードで進化し、変わりつつあるかと言うことを実感する。
先日、ブログメイトの池上氏が、地球上の生物が、放射能汚染のため、やがて絶滅するのではないかと心配していたが、歴史学者・阿部謹也は、地球上の人の全てが個人に目覚め、世界の歴史の中の人間の知恵を学び、調和の中で生きることを、あの世から願っていることと思う。
阿部謹也の世界
kankianさんに唆され、阿部謹也氏の著作の一つ、「日本人はいかに生きるべきか」についてブログする羽目になった。急逝された阿部さんが、沢山の著書を残しておられることをネットで調べて知った。そして阿部さんが、私が私淑して已まない元一橋学長・上原専禄教授の弟子であったことを、私としたことが、迂闊にも今まで知らなかった。
昭和17年、太平洋戦争酣の頃、学徒の徴兵猶予も停止され、我々が戦場に駆り出される日も近いという時、経済原論の講義を担当されたのが上原教授であった。教授は、経済原論の講義をそっちのけにして、最初から最後まで、仏教の源流となった紀元前五千年の古代インド哲学の講義で終始した。戦争に行けば戦死するかもしれない我々にとって、どれだけこの講義が、精神的支えになったことか。般若心経の出現よりも数千年も前に、その母体となる思想が在ったことを教えられた。そしてそこから、東洋の思想が始まり、更にそれは、インドを境目として西へ伝播したものはヨーロッパ思想の母体となり、東へ伝わったものは東洋思想や仏教の源となった。地球上に生きてきた人類の知恵の流れの壮大なロマンを見る思いであった。やがて戦地へ赴く我々は、「朝(あした)に道を聴けば、夕べに死すとも可」という心境に近かった。我々は天皇のために死にに行くのではない。戦っている同胞を見過ごすことが出来ないから、一緒に戦うために戦場に行くのだという気持ちであった。
阿部さんによると、12世紀頃まで、西洋でも日本でも、人は集団で生活し、個人というものは無かったと言う。集団には首長がいて、掟によって集団を拘束し、耕作や使役や軍事に徴発し、掟に違反すれば殺した。個人の意識が生まれたのは比較的新しいことで、個人とは、自己の内面、内なる世界を意識する人を言う。外の大宇宙(マクロコスモス)に対し、内なる世界を小宇宙(ミクロコスモス)という。ヘルマン・ヘッセは、ミクロコスモスに目覚める若者・デミアンを書いた。
阿部さんは言う。個人が生きる道を求めるには、先ず己を知らなければならない。そして己を知るためには、日本のみならず世界の歴史を学ぶことが重要だ。人が歴史を学ぶのは、単に過去に起きた事実を知識として知ることではなく、自分が今生きている世界が、どういう道を辿って過去から現在に至っているかを知ることが重要なのだという。そして人は過去を知ることによって、個人としての現在の自分が見えてくるのだという。
日本に個人と言う言葉が生まれたのは明治17年であるという。多分、福沢諭吉あたりが発明した言葉であろう。明治政府は、欧米の列強に対抗するため、富国強兵を図らなければならないとし、そのためには欧米的個人主義意識を培い、その上、自由主義、民主主義の思想を導入し、議会制度の創立、憲法の制定など、欧米的文明開化を実現することを国策とした。政府の指導者たちは、日清、日露の戦いに勝利したことで国力を過信し、昭和の代になって欧米と戦うことになり国の行く末を誤った。
江戸時代までの日本の町人には、世間ということが大切なことであった。そして生きてゆくためには、世間というものがどうゆうものかという知識が必要で、武士など特別な階級以外は、グローバルな教養と言ったものは必ずしも必要でなかった。世間様に顔向けできないようなことはするなということさえ守っていれば、お天道様はついてきてくれた。この世間の中で生きてゆくシステムを、阿部さんは、歴史的、伝統的システムと呼ぶ。そして現代の日本人として生きるためには、もう一つのシステムが必要であると指摘する。それは、革新的近代化システムである。
世間という言葉で現わされる歴史的、伝統的システムは、人間の感情とか義理人情とか、言わば非合理的な人間関係を基礎とする文化で、江戸時代を通じてそれ程変らなかった。それに対して、革新的近代化システムは、明治以降大きな変革を遂げ、今でも刻々変わりつつある。産業、企業、マーケット、金融制度、社会保障、行政、公共施設、医療、通信、交通など、その他あらゆるシステムがこれに含まれる。これらは全て合理的で、文字や数字の情報で記録したり検証することが可能なシステムである。
過去において我々は、万世一系の皇運を扶翼するため洗脳され、戦場に駆り出された。そこには個人の存在は無かった。今又日本の政治の指導者たちは、愛国心で国民を洗脳しようとしている。阿部謹也さんが、我々にアドバイスしようとしていることは、世界の歴史を学ぶことによって、自己に目覚め、自己を知り、世間というものの中で長い間に培われてきた歴史的、伝統的システムと、激しく変化する近代化システムとの調和を図りながら生きてゆくのが我々のいきかたであると言っているようだ。