日本古代史
井沢元彦の「逆説の日本史」を読むと、面白いことが、一杯書いてある。未だ全部読み切った訳ではないが、日本古代史の辺りを読み始めて、合点するところが多い。例えば、聖徳太子の人物像について、今年の8月3日の私のブログに若干書いたが、井沢元彦の「逆説の日本史」には、更に踏み込んだ事が書いてある。
571年、29代欽明天皇は、死の床で皇太子(後の敏達天皇)に、朝鮮に出兵して新羅に奪われた任那(みまな)を取り返せと遺言して死んだ。実は、朝鮮の任那は、天皇家の故郷の国であったのだ。30代敏達天皇も、弟の橘豊日皇子(たちばなとよひのみこ 後の31代用明天皇・聖徳太子の父)に、同じ遺言をして死んだ。用明天皇の妹・額田部皇女(ぬかたべのみこ 後の推古女帝)が、異母兄の敏達天皇と結婚して竹田皇子を生んだ。この頃の天皇家の系図はややこしい。異母兄弟姉妹の結婚は認められたのである。用明天皇の次に異母弟の32代崇峻天皇が即位した。この代で初めて朝鮮出兵が具体化し、591年、崇峻天皇は、任那奪回のため二万の軍勢を北九州に集結させた。ところが崇峻天皇が何者かに暗殺されたため、朝鮮出兵計画は中止となった。
日本書紀には、その頃天皇家をないがしろにしていた曽我馬子が、秘かに東漢直駒(やまとあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を 拭し奉ったと書いてあり、更に東漢直駒は、馬子の娘を盗んだため馬子に殺されたと書いてある。蘇我馬子が証人を消すために、天皇拭逆の下手人を処刑したと言うならありそうなことだが、娘を盗られた私憤を以って東漢直駒を殺したなどと、公の歴史書にこんな書き方をされるのはおかしい。
暗殺された崇峻天皇の後継者として、最も有力だったのは聖徳太子であった。だが、聖徳太子は遂に天皇にはなれなかった。それは、叔母に当る額田部皇女(後の推古女帝)が自分のお腹を痛めた息子の竹田皇子を天皇にしたいという強い意志が働らいたからであった。崇峻天皇の暗殺は、額田部皇女の陰謀だったのだ。崇峻天皇暗殺の本当の黒幕は、聖徳太子なのだという疑惑を振り撒いたのだという。しかし、竹田皇子は病身で早死した。すると、額田部皇女は自ら皇位を継ぎ、日本最初の女帝・33代推古天皇となった。
聖徳太子は、世間から叔父殺しと白い目で見られ、天皇にもなれず、暫くの間、強度のノイローゼとなり、療養のため伊予の道後温泉へ行っていたという。そこで漸く病を癒し、政界に復帰したが、推古天皇が長生きしたため、それより先に没した。推古女帝の在位は36年に及び、息子・竹田皇子の墓に一緒に葬ってくれと遺言して死んだ。現在飛鳥にある植山古墳は、推古女帝と竹田皇子の合葬された墓と見られている。