阿部謹也の
前回のブログで阿部謹也の著書「日本人はいかに生きるべきか」の中に出てくる二つのシステムについて書いたが、少し分かり難い点があったのではないかと思い、区立図書館から借りてきた本を、このまま返してしまうのでは、若干心残りなので、もう少し掘り下げてみることにした。
阿部謹也が云う「世間」という言葉で現される歴史的伝統的システムについて考えると、私たちはよく「日本の社会」といういいかたをするが、「社会」と言う言葉は、明治10年頃に翻訳語として生まれてきたもので、それ以前の言葉で、強いて「社会」と言う言葉に最も近い言葉といえば「世間」という言葉しか無かった。「世間」と言う言葉は、人間関係の全てを含む極めて幅の広い概念で、それに向き合う人の姿は千差万別である。例えば、日本人の多くは、出産と言えば安産のお守り、子供が学校の試験を受けるようになれば入学祈願、結婚は神前結婚、お正月には家内安全、商売繁盛を祈って初詣、戦地へ行くといえば千人針、日本中お祭りでワッショイワッショイと、こういった神信心の中で生きている。また私たちは、お中元、お歳暮、年賀状、お葬式、婚礼など、人間関係にしょっちゅう気を使って生きている。これらは全て「世間」という歴史的伝統的システムの中での生き方と言える。
ヨーロッパでは、12世紀頃から、人が個人に目覚めるようになって、「世間」という非合理的な義理人情の世界が無くなったが、日本ではまだ多くの人が「世間」を引きずって生きている。だから今の欧米人には、日本人の行動で理解し難いもが多い。神信心や色んな気使いもそうだが、例えば、バレンタインの「義理チョコ」とか、日常会話でよく使う「よろしく」などもその類である。
阿部謹也の云うもう一つのシステム、即ち近代化のシステムについてであるが、私たちは義理人情の世界に住んでいると同時に、近代化のシステムの中にも住んでいる。例えばブログをやるとか、インターネットで資料を収集するとか、図書館の蔵書を検索するとか、デジカメで写真をとったり、DVDで家にいながら好きな映画を見たりする。近代化はますます進む。携帯電話、電力線カラノインターネット、先端医療、核開発等々、これから何が出てくるか判らない。1億年前の化石植物と全く同じ植物が地球上に現存していると言う植物の世界に比べて、人間の世界が如何にもの凄いスピードで進化し、変わりつつあるかと言うことを実感する。
先日、ブログメイトの池上氏が、地球上の生物が、放射能汚染のため、やがて絶滅するのではないかと心配していたが、歴史学者・阿部謹也は、地球上の人の全てが個人に目覚め、世界の歴史の中の人間の知恵を学び、調和の中で生きることを、あの世から願っていることと思う。