法隆寺ー2 法隆寺再建の中心人物と見られる藤原不比等
(藤原不比等)
テーマ・日本古代史ー法隆寺ー1で、聖徳太子の氏寺であった斑鳩寺(後に法隆寺)が670年に落雷で全焼したあと、誰がいつ何のために再建したのかという謎に迫ったが、結論的にには、藤原不比等が中心であったらしいという所まで来た。ところが、藤原不比等が実質的編纂者であると云われる「日本書紀」には、法隆寺の再建については、何一つ触れられていない。梅原氏は、藤原不比等には、法隆寺の再建に触れたくない事情があったと推論している。ではその触れたくない事情とは一体何であったか。
梅原氏によると、「古事記」「日本書紀」の本当の作者は、藤原不比等だという。権力者が自分に都合のよいように粉飾した歴史書であるという。例えば「大化の改新」にしても、皇室をないがしろにし、横暴の限りを尽くした蘇我蝦夷、入鹿を、中臣鎌足と組んだ中大兄皇子が滅ぼし大化改新を実現したと教わったが、実際は、山背大兄皇子、蘇我親子、古人皇子、有間皇子など全ての邪魔者を倒し、最終的に権力の座を手に入れたのは藤原氏で、中臣鎌足の大陰謀だったという。
梅原氏によると、中臣鎌足という人物は、元々神に仕える氏族で、神のご神託を天皇に伝える役目であったという。そこで中大兄皇子、軽皇子(後の孝徳天皇)等と談合し、野心的に全ての企てを実行したらしい。そして鎌足の子・不比等は、父・鎌足の所業のすべてを見て育ったであろう。その不比等が最も恐れたのは、深く仏教に帰依し、子孫のことごとくを殺された聖徳太子の死霊であった。不比等が中心になって、聖徳太子の死霊が藤原一族に祟りをしないよう閉じ込めるために法隆寺を再建したと考えられる。法隆寺をどの寺よりも立派に再建するから、聖徳太子よどうか成仏してくれ。そしてそこから外に出ないでくれと言うのが、不比等と彼を取り巻く一族の悲願であった。ところが、720年に不比等が62歳で急死し、残った4人兄弟も、藤原氏の前に立ちふさがった長屋王を殺すと、そのあと、次々に祟りが起き、藤原一族にとって大変なショックだったことであろう。
藤原氏一族が、如何に聖徳太子の死霊を恐れたかということは、不比等の死後、妻の橘三千代、娘の光明皇后、孫の聖武天皇など不比等の一族から、夥しい財物が法隆寺に寄進されたという事実がこれを裏づけている。また、法隆寺の建物、五重塔、仏像その他についての多くの謎が、このことによって解き明かされてゆくのである。(続く)