大伴家持の青年時代
(前回まで) クラス会のお世話でバタバタして暫くブログから遠ざかっていたが、一段落したのでブログを再開する。前回「万葉の世界」では、万葉後期の代表的歌人とされる大伴家持が、天平十年(738)、23歳で名門貴族従三位・大伴旅人の跡を継ぐ有能な若者として初めて朝廷に出仕し、内舎人(うちとねり)に任官した所まで話を進めたが、その頃は藤原不比等亡き後で、藤原広嗣の乱などがあったりして世情は騒がしく、聖武天皇と光明皇后は、諸国に国分寺の設置と東大寺に大仏建立を発願された頃である。
(越中守時代) 大伴家持はその後順調に昇進し、天平十八年(746)7月、従五位下の時越中守に任ぜられ、富山に赴任する。その頃の越中は、能登(石川県)をも含む広大な地域であった。現在なら弱冠29歳で富山、石川を含めた県の県知事という訳。如何に彼が嘱望されていたかということ。そこで彼の最も重要な仕事は徴税と高利貸であった。開墾を奨励して税収を増やし、春には農民に種籾を貸付け秋に高い利息をつけて回収する。彼は馬車馬の如く働いた。それは唯々東大寺の大仏建立の資金集めの為であった。勝宝三年(751)、彼は少納言に昇進され都に戻る。万葉集4516首の内、家持の歌が473首もあり、その内223首が越中守時代の作歌であることから、如何にこの時代彼が張り切っていたかが分かる。
(海行かばの歌) 戦時中忘れもしない大本営発表と共に聞かされた「海行かば」の歌は、家持が越中守時代に作ったものである。大仏に貼り付ける金が足りなくて困っている時、偶々陸奥の国で砂金が900両も出土して、天皇がすごく喜んで詔を発し、汝等の遠い先祖から皇室に尽くしてくれたお陰で天が助けてくれたのだと白うた。それに感激して家持がこの歌を作った。天皇の為ならどこで死んでも省みませんとお世辞を言ったのがあの歌で、その為後の世靖国神社に祀られることになった若者の英霊がどれだけいたことか。
(東大寺大仏開眼供養会) 家持が都へ帰った翌年、勝宝四年(752)四月、東大寺大仏開眼供養会が盛大に催された。その前勝宝元年(749)、予て健康の優れなかった聖武天皇は7月孝謙女帝に譲位され、ご自分は出家された。健康上というのは表向きで、実は藤原一族と結託する光明皇后に退位を迫られたようだ。その直後、藤原仲麻呂が一躍大納言に昇進した。大仏開眼の際、孝謙女帝は文武百官を率いて自ら開眼会を主宰した。この行事が終わった後、女帝は宮廷に帰らず、仲麻呂の屋敷に居続けしたのである。家持も当然この儀式には参列していたであろう。女帝の行動が単なる性的スキャンダルに留まらず、政治的に重大な意味を持っていることに気付いたであろう。女帝と仲麻呂の結託、それを支える光明皇太后という構図である。そしてこのことが、後の橘奈良麻呂の乱への導火線となって行く。家持はこの時限り筆を折り、万葉集には大仏を称える歌は一つも載せられていない。越中時代の苦労は何であったあのかという家持の呟きが聞こえるような気がする。(続く)