郷土の作家・竹原素子
2月11日(日、祭)、渋谷・ヴェントーノ トーキョーで催された2007年越後加茂郷人会に出席した。中学時代の友人に、久しぶりに逢えるかもしれないと思ったからである。子供のころ使い慣れた加茂弁も、郷里を出て使わなくなってから久しい。昭和15年、加茂から福井市へ引越した時、隣家の人から、お宅は朝鮮から来られたのですかと尋ねられて驚いたのを思い出した。郷人会の会長も、今日はイとエの区別など気にせず大いに加茂弁でおしゃべりして下さいと挨拶された。
歓談中、郷土加茂出身の作家・竹原素子さんに出会った。1927年(昭和2年)生まれと言うからもう80歳。声も大きく大変お元気だ。お会いした記念に、昨年8月出版されたノンフィクション小説「雪炎」を一冊買い求めたら、本の扉に日付入りでサインをして下さった。川端康成の小説「雪国」の舞台となった越後湯沢の近くに塩沢という町があり、この辺りを中心に昔から越後縮(えちごちじみ)という麻を素材にした高級織物の生産が盛んであった。「雪炎」という小説は、「雪ありて縮あり」と云われた、厳しい豪雪地帯の中で機を織り続けた織女のひたむきな情念を哀切に描いた作品である。
竹原素子は、今から6年前、小説「うしろ面」(顔の前と後に違った面を着けて踊る芸能で、その伝統は今では加茂にしか残っていない)を書上げたの汐に、作家から足を洗う積りだったが、1770年(江戸後期、田沼意次、賀茂真渕などが亡くなった年)、越後湯沢の縮商で、滝沢馬琴や十返舎一九などと親交のあった文人・鈴木牧之(すずきぼくし)が、40年もかけて著した名著「北陸雪譜」という当時のベストセラーを読んで感激し、この年になって再びペン執る情熱を掻き立てられと云う。JR塩沢駅の近くには、鈴木牧記念館があり、牧之に関する資料を見ることができる。
「雪炎」には、八編の小説が含まれているが、その中の一つを覗いてみよう。魚沼郡堀之内の十兵衛の家のおばば・ウメノという年老いた産婆が語る孫娘・キクノの物語である。キクノは十三の時から機を習い始め、生まれつき覚えが早く、そして今は器量よしの十七歳、婿を迎える年頃となり、十兵衛の自慢娘となった。織女にも等級があって、最上の技術を身につけた織女は、「御機屋(おはたや)」と呼ばれて、朝廷や幕府の高貴な方々の注文の縮を織ることが許され、村人達からも一目置かれた。キクノはその年、「御機屋」になることを認められたのであった。
キクノは娘盛り、しかも情に厚い女であった。盆踊りで音頭とりを勤めた義助という粋な若者に、何時しか思いを募らせるようになった。高貴なお方が着る縮を織るときは、身を浄め、神聖な「御機屋」に篭って一心不乱に機を織らねばならない厳しい掟があった。男と通ずるなどしたら神様の罰をうけると伝えられていた。キクノはその掟を破って、生涯一度だけ、「御機屋」を抜け出し、好き合った義助に命がけで体を任せた。だが義助は、春の雪崩れに打たれて敢え無く死んでしまった。それを知ってキクノは出刃包丁でお腹を突き刺して死のうとするが、おばばからお前は身篭っていると告げられて生きる決心をする。そして数日後、雪の下から掘り出された義助の遺体を飾って、婚礼と葬式を同時にやるキクノの鬼気迫る綿帽子姿の哀れさに、集まった人々は皆涙したという。
あれから十年たって、おばばも七十と老い先短い年となったので、今の内にと孫娘・キクノのことを語ったのであった。今は、キクノの両親も他界したが、キクノは立派に立ち直り、その後、塩沢から婿養子を迎え、だんだん義助に似てきた息子・大助に目を細めながら、村の娘たちの縮の指南役で幸せに暮らすキクノであった。