法隆寺ー隠された十字架ー5 | 八海老人日記

法隆寺ー隠された十字架ー5

          

           法隆寺夢殿 (法隆寺夢殿)

  

 梅原猛著:法隆寺論「隠された十字架」を読み進んで、もうあと少しで読み終える。前回は、「五重塔」について書いたが、今回は夢殿についての話。法隆寺が、聖徳太子及びその一族、子孫の怨霊を封じ込めるため、藤原一族によって再建された寺であることを述べた。再建された当座、藤原一族も、藤原の息のかかった持統帝の血筋たち(不比等の娘・宮子は持統帝の孫・文武帝に嫁し、宮子の異母妹光明子は持統帝の曾孫・聖武帝に嫁し、臣下として異例の皇后となる)と共にしばらくは平穏であった。ところが、720年に不比等が急死し、729年に起きた長屋王の変の後あたりから次々と不幸が藤原氏の上に襲い掛かる。


 長屋王の変については、一昨年12月8日のブログで書いたから記憶も新しい。藤原一族が、朝廷における政治権力を握るため、邪魔になる長屋王を排除しようとして仕組んだ陰謀であった。その後、732年の大干ばつ、734年の大地震、735年の疫病大流行、737年には、長屋王を陥れた藤原四卿が次々天然痘で死ぬという惨事が続き、民衆はこれを長屋王の崇りと恐れた。


 法隆寺の東側の聖徳太子やその一族が住んだ斑鳩宮跡は、一族が滅びた後、荒れ果てていたが、そこに夢殿を中心とする東院伽藍の建設を光明皇后に勧めたのは、法隆寺の僧・行信である。藤原家の人々は法隆寺を再建して手厚く太子の霊を祀ったが、まだ太子の霊は十分に慰められていない。そのため太子の崇りである異変が続いている。斑鳩宮跡に、伽藍や八角円堂を建て、更に手厚く太子を祀るべしと説いた。八角円堂は中国ではお墓を意味する。


 光明皇后は、この説得に逆らへず、行信に資金を提供し、739年から747年にかけて、東院伽藍や夢殿が完成した。等身大の仏像を祀った夢殿の厨子は、このあと1200年間一度も開けられたことがなかった。その理由はこれを開けると天変地異が起きるとか、仏像を見ると眼がつぶれるよか信じられて来たからである。明治17年、夢殿の厨子を開き、白布で巻かれた救世観音の像を取り出したのは、岡倉天心の師・フェノロサである。フェノロサはこの像を見て、ダヴィンチのモナリザのようだといって驚嘆したという。今は春秋二回一般に公開され、誰でも拝観することが出来るが、天変地異も起きないし眼もつぶれない。