法隆寺ー3 怨霊を閉じ込める寺 | 八海老人日記

法隆寺ー3 怨霊を閉じ込める寺

             (藤原鎌足)


 670年に法隆寺が全焼したと日本書紀に書かれているが、再建については一言も触れていない。一帯誰が何のために再建したのかと言うことについて、前回までのブログでは、日本書紀が敢えて触れなかった所に真実が隠されているという梅原猛氏の説を紹介した。鎌足の子・藤原不比等らが中心となって作られた日本書紀は、真実を覆い隠すために作られたと考えられるものであるが、梅原氏の結論は、日本古代の歴史は、美しい国どころか、権力者たちによって血塗られた陰謀、だまし討ち、褒め殺しの歴史であったという。具体的に幾つかの事実を振り返って見よう。


 (1)592年の崇峻帝の暗殺事件。蘇我馬子の娘・刀自古娘(とじこのいらつめ 後の推古女帝)に唆された東漢直駒(やまとのあやのあたいこま 刀自古娘の家庭教師で彼氏)が天皇を暗殺した。刀自古娘は、自分の子・竹田皇子(父は敏達天皇)に皇位を継がせたい一念で崇峻帝を殺させ、有能で人望があり、天皇の有力候補であった厩戸皇子(うまやどのみこ 後の聖徳太子)に崇峻帝暗殺の黒幕をなすりつけた。このため厩戸皇子はノイローゼになり、遂に天皇になることが出来ず、49歳で没した。


 (2)643年、山背大兄皇子及び一族が滅ぼされた事件。崇峻帝の後、竹田皇子が幼少のため、刀自古娘が自ら初めての女帝となり、推古帝が出現した。竹田皇子は病弱で早逝し、厩戸皇子が没しても推古女帝の在位が続き、626年には、推古帝の父・蘇我馬子が亡くなり、その二年後に漸く推古帝が75歳で没した。蘇我馬子の後は、蝦夷とその子の入鹿が宮廷を牛耳っていた。

推古帝の後は舒明帝の在位が13年続き、舒明帝が亡くなった後、舒明帝の皇后が皇位を継ぎ皇極帝となった。その頃、最も有力な皇位継承資格者と見られていたのが、厩戸皇子の子・山背大兄皇子であった。それを皇極帝の弟・軽皇子(かるのみこ 後の孝徳帝)に蘇我入鹿が加担して攻め滅ぼしたのである。この事件が実は中臣鎌足の大陰謀の発端であった。


 (3)645年、舒明天皇を父とする中大兄皇子は、中臣鎌足の筋書きに基づき、蘇我一族の内紛を利用し入鹿、蝦夷親子を滅ぼし、更にその直後、異母兄である古人皇子(ふるひとのみこ)を殺す。658年には、中大兄皇子は、孝徳帝の子・有間皇子を罪無くして謀反の疑いで処刑。


 (4)672年、壬申の乱が勃発。天智天皇の弟・大海人皇子が天智天皇の長子・大友皇子を滅ぼし天武天皇となる。


 (5)686年、大津皇子が謀反の疑いを掛けられ自害。


 (6)729年、長屋王が聖武天皇及び藤原一族に殺される。


 藤原氏が皇室の権威を利用し、氏族の勢力を伸ばして行った跡には、恨みを呑んで死んでいった者たちの無数の屍が横たわっている事だろう。そしてこの膨大な政治ドラマの大半を演出したのが藤原鎌足であり、真実を隠した歴史書を後世に残したのが藤原不比等であったという。


 天智八年(669)、法隆寺が全焼する一年前の秋、藤原鎌足の屋敷に落雷があった。落雷といえば今では子供でも放電現象と知っているが、古代の人は死霊の祟りと恐れ慄いた。この落雷があって間もなく、鎌足が病の床に着いた。やっぱり鎌足は何者かに祟られていると人々は感じたであろう。表面には出ることの無かった鎌足ではあったが、共に事を運び真相を共有している天智帝は鎌足の病床を見舞い、大織の冠と大臣の位と藤原の姓を授けた。死霊に取り付かれた鎌足に対する最後の贐であった。こうして鎌足は死に、そしてその翌年、法隆寺が全焼した。鎌足屋敷の落雷と鎌足の死と法隆寺の火事と、これら災いの総てが何かの祟りであると、政治の近くにいた人は感じたに違いない。恰も厩戸皇子の怨霊が、鎌足を、天智帝を、大友皇子を、厩戸皇子とその子孫を滅ぼしてしまった人々を、次々に死の国へ呼んでいると思ったとしても不思議は無い。


 鎌足や天智帝のして来たことを一番良く知っている不比等らは、厩戸皇子の怨霊を最も恐れたに違いない。そこで厩戸皇子には「聖徳太子」の名称を贈る事とした。これが「褒め殺し」である。しかし、中々天変地異は収まらなかった。その結果、藤原氏の財力を傾けた広隆寺再建が行われ、仏教の力で怨霊を封じ込めようとした訳である。次回から「法隆寺の奇怪な謎」に触れる。