誇り高き敗者の書「万葉集」
前回「万葉の世界」のブログで、古代からのメッセージが隠されている山柿の門の秘密、その謎を解く鍵としての字母歌の暗号に触れ、万葉集が単なる古典文学の書ではなく、平安時代まで下がって山柿の門の秘密の伝承者であった源為憲(生年不明、1011年没、源氏物語が世に出始めた頃の人。いろは歌のほんとうの作者)が、万葉集に最終的に手を加えたのみならず、実在の人物に変えて柿本人麻呂という架空の人物を登場させ、権力に刃向かって処刑された実在皇族の存在を遂に万葉集から隠しおおせ、この改竄によって、初めて万葉集は世にだされ、日の目をみることが出来た。
最近、偶々新橋に用があってJR新橋駅に降りたところ、駅前広場で古本市が開かれていた。冷やかしの積りで覗いてみたら、大浜厳比古(おおはまいつひこ)と言う人が書いた「万葉幻視考」と言う本が目に入った。ちょっと面白そうだし値段も500円と安い(定価二千円)ので買い求めた。早速家へ帰ってパラパラとめくってみたら、梅原猛が序文を書いており、履歴を見ると1920年(大正九年)生まれ。梅原より五歳年上。同じ京大出。但し、梅原の哲学科似たいし大浜は国文科。京大卒業後、天理大学、神戸学院大楽などの教授を歴任、雑誌「万葉」の編集長も勤めた。
梅原は大浜氏を評して、詩人の魂を持った人が間違って学者になったようなものと言っている。大浜氏は糖尿病持ちの癖に無類の酒好きで、友と酒を飲んでは古代史や万葉の議論をしていたと言う。梅原も先輩の大浜氏に、余り酒を飲みすぎないよう忠告したが聞き入れず、1977年(昭和52年)、糖尿病からくる脳内出血でこの世を去った。享年五十七歳であった。生前、梅原の法隆寺論「隠された十字架」に触発され、「誰が、いつ、何のために万葉集を編纂したのか」を自らの命題として意識していた。万葉集は読めば読むほど分からなくなると言う。
私が買い求めた「万葉幻視考」と言う本は、大浜氏の死後、大浜氏が雑誌「すばる」に連載していた「新万葉考」を一冊に纏めたものである。その中で大浜氏は、記紀は勝者の書であるが、万葉は誇り高き敗者の書であると言う。記紀は権力者が自分たちとって都合の悪いことを覆い隠すためにつくったが、万葉には敗者の怨念が字にならない字で叫ばれているのだ。それは死について古代人の心にならないと分からない。古代人にとって死んだものは死の国で死霊として存在しているのだ。
万葉集巻一の一番の歌は二十一代雄略天皇の御製である。「籠(こも)よ み籠持ち・・・・」という歌で、菜をつむ籠を持った可愛い乙女よ、わしはこの国を治める天皇で、誰でも屈服させる強い力をもっているのだ。だからわしの言うことを聞けという歌である。二番目のの歌は、三十四代舒明天皇の歌で、「大和には群山あれど とりよろう天の香具山・・・・」というよく知られた歌である。この歌も国家権力を称える歌である。この二つの国家権力を称える歌が何を暗示しているのか。そこに大浜氏は、この二つの歌の間には、日嗣争いや陰謀で罪無くして殺された夥しい高貴の人の死霊がさまよっていると言う。例えば、眉輪王(まゆわのおおきみ 二十代安孝天皇を拭殺)であり、山背大兄王であり、崇峻天皇であり、蘇我蝦夷、入鹿出あり、斉明天皇であり、建王であり、孝徳天皇であり、有間皇子であり、大津皇子であり、大友皇子であり、古人皇子などである。
権力者としての雄略帝と舒明帝を巻頭に置いたということは、言葉としては表示されないが、これが万葉集の「序」としての意味を持つものと考えてよかろう。「万葉集はカタリとウタの文学である。然し文字に表わされないところに真の姿ががあると言うのは古典文学者・三谷栄一氏の言葉である。「怨霊信仰は孝徳天皇の頃から始まり、天智天皇の頃にはそれがはっきりした形であらわれてくる。万葉集もそのことを念頭に置かないと空虚な文学になってしまう」とは折口信夫博士の言葉である。次のブログ「万葉の世界」は、大浜氏の書を参考にして、「万葉のウタ と怨霊」をテーマにしたい。