初めての沖縄旅行
(平成19年4月3日撮影 ひめゆりの塔 塔の下が巨大な防空壕になっている)
4月3日から、阪急トラピック社の「沖縄たっぷり三日間」というツアーに参加し、初めて沖縄を旅して来た。動機は、費用が三日間、飛行機代、ホテル代、バス代、食事代まで入れて一人3万3千円と安いことと、もう先がそんなに長くないから、一度行って見たかった沖縄を訪れる最後のチャンスだと思ったからである。幸い、家内も杖代わりに一緒に行ってくれたので助かった。
出発当日、パソコンの「乗換案内」でルート、出発時刻を検索し、予定時間より少し早めに家を出た。パソコンは必要なことは何でも教えてくれるから助かる。JRで新宿から山手線内回りで品川へ出て京急線に乗換え、急行羽田空港行の終点で下車すれば、そこが第一ターミナルである。3月18日からJRのイオカード「スイカ」が私鉄にも共通になったので、すごく便利になった。二階の集合場所で搭乗券を受け取る。荷物検査も簡単に済み、25番搭乗口で出発まで待機。出発時刻の15分前に搭乗開始。飛行機はJAL4693臨時便で、出発時刻は9時45分。定刻離陸。目指す那覇までは、2時間半の空の旅。
ほぼ定刻、那覇空港に到着。旅行社がチャーターした3台の50人乗りツアーバス(沖縄バス)に分乗。各車両には、旅行社からの添乗員とバス会社からの添乗員が付いて出発。最初の目的地は「ひめゆりの塔」。昭和20年3月~6月、米軍の沖縄上陸作戦で、この島は熾烈な戦場と化した。日本本土上陸の拠点とするためである。その頃内地では、3月10日、5月25日の東京大空襲に見舞われ、大本営は「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、民衆は、バケツリレー、火たたき、竹槍で米軍の近代装備に立ち向かわうとしていた。
沖縄師範学校女子部及び沖縄県立第一高等女学校の生徒と教諭たちで編成された「ひめゆり学徒隊」約280名が、防空壕の中で傷病兵の看護に当たらせられていた。米軍は日本人に無益な抵抗を止めて投降するよう奨めたが日本軍の指揮官はそれを許さず、学徒隊の乙女たちは防空壕の中で手榴弾による自決を強いられた。誰が罪なき沖縄の乙女たちを死に追いやったかは明らかである。勝算なき日米戦争に国民を引きずり込み、一億玉砕を叫んだ最高指導者たちが、今、靖国神社に神として祀られており、しかも歴代総理がそれを参拝に行くということに、日本人は何故矛盾を感じないのだろうか。
次に訪れたのは平和祈念公園。ここは沖縄戦終結の地で、公園の中の「平和の礎」には、沖縄戦で犠牲になった18万とも言われる島民の内、約3万5千の霊がここに眠らされている。だが土地の人は、沖縄戦はまだ終わっていないと言う。何故なら、夥しい犠牲者の遺骨が、バリケードで囲まれた米軍基地の中に未だに放置されたままになっており、米軍が撤退するまでは沖縄戦は終わらないのだと言う。しかし、沖縄米軍基地は、日米戦争における日本敗戦のシンボルであり、世界に恒久的平和が齎されるまでは、米軍の撤退は考えられない。何時まで拘っていても始まらないと思う。
次の訪問先は、世界遺産・座喜味(ざきみ)城址。その昔、沖縄には大小約400の城(グスク)あったという。その中で最も古く最も大きなのが座喜味城である。この城は、15世紀の始めに築かれたという。江戸初期、薩摩藩が攻めて来て、建物を焼いたり、荒らし回わったりしたらしい。その頃の沖縄は、琉球王国と称し中国(明、清)の属国であった。明治12年に日本政府は、琉球王国を、一方的に日本の版図に組み入れ沖縄県とした。これに対し時の中国(清)政府は強く抗議し、やがて日清戦争に発展するが、清政権は既に弱体化しており、日本との戦争に負け、沖縄を取り返すどころか、台湾まで日本に取られてしまった。これが沖縄の悲劇の発端である。
座喜味城址で沖縄の歴史を振り返った後、黒糖工場、ガラス工場を見学し、「琉球の館」に至り、ブーゲンビリヤの花に囲まれた昔の民家や倉庫などを見学した。一日目の最後は、那覇市おもろまちにある「DFSギャラリア沖縄(大型免税店)」を冷やかしで立ち寄る。世界中の有名ブランド品が内地で買うよりも30%も安く手に入るという。沖縄の本土復帰前の名残で免税措置だけが今でも残されているのだという。だがどれも0が一つも二つも多い高級品ばかりでとても手が出ない。一回りしただけでホテルへ入った。
二日目はバイキングで朝食を済ませ、8時にバス出発。那覇市から北上し、沖縄屈指のマリンリゾート・恩納海岸(おんなかいがん)の珊瑚礁が隆起して出来た断崖・万座毛(まんざもう)の絶景を見物。ここはかっての琉球国王が絶賛した景色だそうであるが、今は自殺の名所だとバスの添乗員は言う。この後、「ナゴパイナップルパーク」を訪れ、パイナップル、パインワイン、パインジュースなど、食べ放題、飲み放題で、小腹が一杯になるほど。琉球茶漬けで昼食を済ませ、昭和50年の沖縄国際海洋博覧会の名残を留める海洋博公園で、ギネスブックに乗る世界一の水槽のある「美ら海水族館」を見学し、18時頃ホテル到着。
三日目は、いつものように8時にバス出発。世界遺産・首里城跡を訪ねる。首里城は14世紀末、琉球王国の誕生以来、450年間、琉球の首都であった。沖縄戦を含め過去四回戦火で消失再建を繰返し、現在の建物は1992年(平成4年)に復元されたものである。最後に訪れたのは「琉球ワールド」。ここでは、プロ集団の演ずる沖縄音楽や民族衣装による舞踊などを堪能し、玉泉洞という東洋一の鍾乳洞を見学、その足で空港に向かい、18時55分の出発で、自宅へ着いたのは22時過ぎであった。
今回の、私にとって初めての沖縄旅行は、沖縄の数奇な歴史の跡を訪ね、沖縄県民の屈折した心を知ることが出て、私にとってきわめて有意義であった。しかし、日中戦争で多くの戦争犯罪を犯し、日米戦争では沖縄を本土決戦の捨石にし、日本本土の罪なき市民たちまで、一億玉砕を強いようとした最高指導者たちを今の政治家が総括しようとしないのは何故なのか私には解らない。