広尾から麻布までー江戸の名所を歩こう会
12月24日(日)快晴、邦楽の友社主催、第25回江戸の名所をお歩こう会に参加。この日はクリスマスイヴ。日曜日のクリスマスイヴなんて、今夜の銀座はさっぱりでしょう。今日の歩こう会の参加者は、500円程度(上限なし)のプレゼントを持って行くことになっている。10時、東京メトロ日比谷線広尾駅1番出口に守谷社長、目賀田蓼派会事務局長以下14名ほど手ごろな人数が集まる。
最初の目標は、有栖川宮記念公園。ここは、江戸時代、奥州南部藩下屋敷跡で、明治時代は有栖川宮家で使用、大正になって高松宮家と称号が変わり、昭和9年に東京都に下賜された際、旧称号に戻し現在の名称になった。
公立図書館として最大の蔵書(148万冊)を有する都立中央図書館、9月6日、秋篠宮紀子様が悠仁親王を出産された愛育病院などを横目で見て仙台坂を降る。この坂の南側一帯は、江戸時代、仙台藩伊達家の下屋敷のあった所。現在この辺は、外国の大使館が多く、警備員が一日中目を光らせていて、胡散臭い人が通ると誰何される。若し誰何されたら、関係ありませんとはっきり答えて下さいとガイドからの注意事項。韓国大使館の警備員が一番しつこいそうだ。団体か個人か。何処から来たの何処へ行くのと尋問するらしい。
仙台坂を降り切った所に麻布山善福寺という寺がある。この寺は、平安時代824年、唐から真言を修めて帰った弘法大師が真言宗を広めるために開山した寺で、都内では、浅草の金竜山浅草寺に次ぐ古い寺。鎌倉時代になって、親鸞聖人に深く帰依したこの寺の住職・了海によって浄土真宗に改宗され、関東地区における同宗布教の拠点となった。その後浄土真宗は民衆の中に深く根付き、やがては一向一揆にまで発展する。一向一揆に手を焼いた信長が石山本願寺を攻めた時、当山からも援軍を送ったと記録に残っているという。
現在、港区に虎ノ門という地名が残っているが、その地名の由来は、そこには当時、この寺の山門があって、それを虎ノ門と称した名残という。又現在杉並に善福寺池というのがあるが、そこには当時この寺の奥の院があった名残であるという。当時、この寺の寺領が如何に広かったかが分かる。
この寺は、鎌倉時代、蒙古襲来の際、亀山天皇の勅願寺となり、そのご利益で神風が吹き、蒙古軍が撃退されたと信じられたため、朝廷から厚く遇された。秀吉も徳川の将軍たちもこの寺を大事にした。江戸時代が終わり明治になって、この寺はアメリカ合衆国の公使館となり、初代公使・ハリスがここに住んだ。この寺の本堂は、太平洋戦争の時、空襲で焼けてしまったが、その後、大阪府八尾市の東本願寺別院の建物を移築、再建した。
この寺の境内にある公孫樹の大木は、幹の周り10.4m、樹齢750年以上で、親鸞聖人が寺を去る際、持っていたイテフの杖を逆さに地上に立てたのが其の儘根付き、枝葉が茂って今日に至ったといい、御杖公孫樹と称され有名である。気根が枝から垂れ下がり、木がまるで逆さに生えているように見えるので逆さ公孫樹とも称される珍しい木である。(写真)
この寺の惣門と中門の中間に「柳の井戸」という井戸があり、市街地には珍しい伏流水が湧き出ている。二十数年前までは、豆腐屋が仕込み用に水を汲みに来ていたという。現在は当時とは比較にならないほど水量が減っている。傍らに柳の木があり、正式な名称は楊柳水といい、東京の水を代表する名水であったという。この寺には、福沢諭吉の墓もある。
最後は、一の橋を渡って右に入った突き当たりにある、「東京さぬき倶楽部」での昼食。ここは以前「讃岐会館」と称した所であるが、明治時代、蜂須賀公爵家の下屋敷の跡であると聞いている。蜂須賀家の財産整理のとき香川県がここを買い取り、ホテル兼レストランとした。今でも香川県人は一泊9,000円の半額4,500円で泊まれるので、香川県からの出張や修学旅行に良く利用される。郷土料理が美味しく、ここの酒は香川県の名酒「金陵」、郷土料理の後は讃岐うどんで締めくくるという寸法。ここで持参したプレゼントを籤引きで交換。チョコレートが当る。いいご機嫌で帰途に着く。今日は楽しい一日であった。守谷社長に感謝!