小唄人生
来年2月5日(月)、お江戸日本橋亭で催される室町小唄会第20回記念会に、「宵の謎」を唄いたいと思っている。この唄は、上田哥川亭の作詞、吉田草紙庵の作曲で、最も良く唄われる小唄の一つである。歌詞は、「紫の羽織の紐の結び目の どうして固い心やら 案じ過ごしてつい転寝の 片敷く袖の肘枕 まくら行燈のほんのりと ゆかりの色の小夜時雨 濡れながら見る夢占に 涙で解けた宵の謎」。
芝居は、文豪・菊池寛が大正八年四月に発表した小説「籐十郎の恋」を、大森痴雪が三幕物の芝居に脚色し、同年十月、大阪難波座で、中村鴈治郎一座により初演、それ以来籐十郎は鴈治郎の当り芸となった。この芝居を題材にした小唄は他にもある。土屋健作詞、黒崎茗斗、本木寿以合作曲の「お梶」である。この「お梶」の歌詞は、ほぼ芝居の筋書通りで解り易いが、哥川亭の歌詞は難解である。草紙庵も、哥川亭の唄は難しくて節が付け難いとぼやいていたという。哥川亭は、小唄「白扇」の歌詞を作ったことで知られているが、草紙庵は、哥川亭の唄は「白扇」を含め三つしか節付してない。哥川亭の本業は、兜町の株屋さんで、俳句の縁で岡野知十と親しく、その関係で草紙庵に「宵の謎」の節付を頼んだものと思われる。小唄評論家・木村菊太郎氏の説によると、哥川亭は、昭和元年四月、歌舞伎座で催された東西合同公演で、鴈治郎の「籐十郎の恋」を観て、「宵の謎」を作詞したと推定されているが、これに対し英十三氏が真っ向から疑問を投げかけておられる。(鳳山社発行 安田長弘編 草紙庵の小唄解説集 120頁)
英十三氏は、明治二十一年うまれの江戸っ子で、若い頃から文学が好きで、里見 弴と親友になったが、里見は作家になり英十三は帝大法化を出て実業家となり、趣味として歌沢、一中節などを嗜み、小唄に関しては、草紙庵の数多くの名曲の作詞を手懸けた。「宵の謎」が「籐十郎の恋」を唄ったものかどうか、一度確かめれば良かったのに、その機会を逸し、後世に悔いを残した。今や哥川亭も草紙庵も英十三自身も木村菊太郎(18.10.22 93歳)も、謎を残した儘、皆んなあの世へ旅立ってしまった。「宵の謎」が、昭和七年開曲以来、余りに持て囃されたので、英十三氏が聊か焼餅を焼かれたのではないかと私には思われる。
英十三氏による「宵の謎」の謎というのは、先ず何で題を「藤十郎の恋」とか「お梶」とか解り易い題にしなかったのか。二番目に「紫の羽織の紐」とは何だ。これは待合か遊郭などへ遊びに行って馴染女から着せてもらった羽織の紐ではないのか。三番目に「涙で解けた宵の謎」が、何で自害と結びつくのか。この哥川亭の唄は、情のない固物男に対する女の気持ちを唄ったものではないのか、というのが英十三氏の解釈である。だがこの解釈は、聊か的外れではないかと思う。
私が検証するのも鳥滸がましいが、哥川亭の「宵の謎」は、英十三氏の言うような、そんなニヤけたものではない。題を「宵の謎」としたのは、歌詞の最後が「宵の謎」で終わっており、ここがこの曲のクライマックスだからであり、「紫の羽織の紐」というのは、芝居(上方歌舞伎の世話物で全体が色っぽい)を観れば解る筈であるが、藤十郎の姿は、髪を茶筅に結った色白の美男で、その出で立ちは、鼠縮緬の引き返しを着、唇茶の畳帯、その上に黒羽二重の両面芥子人形の羽織を打ちかけており、紫の紐が着いていても少しも可笑しくない。
「涙で解けた宵の謎」は、三幕目の最後の場面。二月も末のある晩、芝居茶屋・宗清の大広間。弥生興行の顔繋ぎの宴席で、藤十郎が密通芝居の工夫が付かず、独り席を抜け出し自分の部屋へ戻って台本と睨めっこ。偶々布団を敷いて出て行こうとするお梶を呼止め、二十年来想い続けたと偽りの恋を仕掛けたのを、演技とはつゆ思わず、藤十郎の手の中へ落ちてしまった四十女の人妻お梶だった。 わなわなと震えながら男の身体を受け入れようとして行燈の明かりをふっと吹き消すと、藤十郎はするりと闇の中へ。仲間のいる所へ戻って来るや籐十郎は立て続けに茶碗で酒を二、三杯ガブ飲みし、相女形に密通芝居の工夫が出来たから安心しろと息を弾ませて告げた。弄ばれたお梶は、涙の中でそれを悟る。この所「涙で解けた宵の謎」の文句がぴったり。それから七日間、興行は大当たりで千秋楽を迎える。
役者たちから、藤十郎に人妻と密通する演技の工夫を教えたと陰口を言われるお梶であったが、弄ばれたとは言え、一旦はその気になったお梶は、千秋楽の日、藤十郎の楽屋で、短刀で胸を一突き、自害して果てる。当時(元禄十年の設定)、現実に密通するということは死ぬ覚悟を意味した。(附)藤十郎の最後の科白、「藤十郎の芸の人気が女一人の命で傷つけられてたまるか!(相女形の手を取りながら)さあ千寿どの、舞台じゃ!」。木の音と共に静かに幕が降りる。ああ、なんと芸術至上主義!
「宵の謎」が開曲されたのは、昭和七年四月、横浜・磯子小唄会で、唄・初代菊地満佐、糸・草紙庵で、刷り物には伊東深水の絹行燈の絵が描かれていたというから、最早籐十郎に違いないが、よしそれが籐十郎の唄でなかったとしても、この唄が名曲であることは変りはないと私は言いたい。
蛇足であるが、千種や小唄全書には、「紫の羽織の紐の結び目に」となっているが、木村菊太郎の昭和小唄には、「紫の羽織の紐の結び目の」と記してあり、私が私淑した已まない中田末男大名人もそのように唄っている。哥川亭は俳句の方だから「紫の羽織の紐の結び目に」と作ったかも知れないが、やまとうたでは、柿本人麻呂の「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の」の伝で、「紫の羽織の紐の結び目の」でなければ唄い難いと思う。