小唄人生
来年1月7日、熱海で行われる春日とよ五和乃会の新年会で、新派小唄「鶴八鶴次郎」の上調子を弾かせて貰うことになった。この唄は、昭和十年第一回直木賞受賞作品、川口松太郎の原作「鶴八鶴次郎」を脚色、昭和十三年、久保田万太郎演出で明治座で初演。花柳章太郎の鶴次郎、水谷八重子の鶴八で、新派の当たり狂言となり、昭和三十四年には上演回数一千回を記録した。小唄になったのは、昭和十五年で、河上渓介の作詞、春日とよの作曲で開曲されたが、河上渓介の簡潔にして情感溢れる歌詞を得て、春日とよの新派小唄の最高傑作となった。現在、小唄の会で別名「心して」の出ない会はないほどよく唄われている。作詞者の河上渓介は、「心して」の他に「久しぶり」、「水芸に」など、春日とよの名曲のいくつかの作詞を手懸けている。
この唄の歌詞、「心して我から捨てし恋なれど 堰くる涙堪えかね 憂さを忘れん杯の 酒の味さえほろ苦く」
〔芝居の梗概〕明治の末めから大正にかけて、東京の寄席や名人会で人気のあった新内語りのカップルの話。このカップルは、太夫・鶴賀鶴次郎(二十九歳)、糸が鶴八(二十四歳)で、表向きは兄妹と言う事になっていたが、実は本当の兄妹ではなく、鶴八は先代鶴八の一人娘・豊(とよ)で、鶴次郎は先代鶴八の愛弟子。二人は互いに芸一筋に生きる者同志を装っていたが、心は何時しか惹かれ合っていた。
しかし、鶴八は、鶴次郎が一向に夫婦になろうと言ってくれないし、気のあせりもあって、湯島の百万長者、伊予善の若主人・松崎から結婚を申し込まれたのを機に、鶴次郎に相談すると、鶴次郎は、お前に嫁に行かれたら俺は誰の三味線で語れるというのかと、日頃の意地を捨てて泣きじゃくるので、鶴八も心無い事を言ったと謝り、二人で所帯を持って寄席を出そうと約束する。
ところが、鶴八が、寄席を出す金の大半を、伊予善から借りたということから、鶴次郎が鶴八に疑心を持ち、二人は別れてしまう。その後、鶴次郎は、独りで新内の弾き語りで寄席にも出るが人気はガタ落ち。自暴自棄になった鶴次郎は、酒びたりになり、次第に心も身体も落ちぶれていった。伊予善の若女将に納まった豊は、そんな鶴次郎が哀れになり、ある日、鶴次郎に、又二人で組んで新内をやろうじゃないかと持ちかけ、鶴次郎もその気になって二人のコンビで名人会に出る。息の合った素晴しい演奏で観客を沸かせたが、鶴次郎は、鶴八の腕が落ちたと散々に罵倒し、自分から鶴八を捨て、涙をこらえながら独りほろ苦い酒を飲む鶴次郎。そうでもしなきゃ、あいつは、折角伊予善の女将に納まったのにまた芸人に戻って来てしまうじゃないかと、涙ながらに呟く鶴次郎であった。
昭和50年頃、新橋界隈で、「お時さん」と呼ばれた新内流しがまだ生きていて、うら寂しい新内の前弾きを独りで奏でながら流して歩いていた後ろ姿が、恋に破れた鶴次郎の姿と重なって思い出される。