小唄人生
和歌の聖と謳われた人麻呂については、今月11日のブログに、多恨の詩人・人麻呂というテーマで、その恨み多かりし生涯に触れた。人麻呂の他に、数多い万葉歌人たちに視線を移す前に、もう一度、人麻呂が生きた時代・白鳳時代を振り返ってみたい。白鳳時代とは、飛鳥時代から奈良時代への橋渡しとなる時代で、年代で言えば630年~710年、天皇の代で言えば、推古朝に次ぐ34代舒明帝~42代文武帝の終り迄の凡そ80年間を言う。
この間、朝鮮半島では、660年、百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、多くの難民や官人が難を逃れて渡来し、国内では、643年に蘇我入鹿が山背皇子一族を皆殺しにし、聖徳太子の子孫が絶えた。645年、大化の改新の勅が発せられ、中大兄皇子・中臣鎌足のコンビで蘇我氏を滅し難波宮へ遷都、658年、有間皇子処刑、667年、近江大津宮へ遷都、672年、天智天皇没するや弟の大海人皇子が武力で帝の子・大友皇子から皇位を奪うという壬申の乱が勃発、40代天武天皇が即位し、都を飛鳥に移す。686年、大津皇子処刑、694年、藤原京遷都。701年、藤原不比等は大宝律令制定の功で正三位大納言に叙せらる。
710年、平城京遷都。白鳳時代は、美術や歌の世界では輝かしい時代であるが、政治の世界では、王権を巡り皇族間の血生臭い争いが絶えなかった時代で、不比等が宮廷を牛耳るようになって、人麻呂も何らかの事件に巻き込まれた可能性が強い。
壬申の乱が治って天武天皇が即位し、讃良皇女が皇后となってからの十数年間、若い人麻呂が頭角を現してきた。天武帝が皇后に生ませた草壁皇子が皇太子となったが、病弱のため早逝し、天武帝の没後、皇后は自ら41代持統天皇として即位し、草壁皇子の忘れ形見・軽皇子を育てた。軽皇子が成人した或る日、人麻呂がお供して飛鳥の東・阿騎野というところへ父を偲んでの旅をした。そこはその昔、父・草壁や若い人麻呂が狩をして遊んだ地である。その時人麻呂が作った歌が巻一に載っているが、その中から有名な二首を紹介する。
「阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古(いにしへ)おもうに(46)」
(阿騎の野に宿る旅人よ 長々と手足を伸ばして安らかに寝られようか 昔のことが偲ばれて とても寝られはしない)
「東の 野にかぎろいの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ(48)」
この歌は、解説するまでも無く、人麻呂の傑作として今でも人口に膾炙しているが、原文は、「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」。これを「ひんがしの 野にかぎろいの立つ見えて・・・」と見事に読み解いたのは、江戸時代の国学者・賀茂真淵である。
因みに、小倉百人一首に人麻呂の作とされている「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を独りかも寝む」という歌は、万葉集では、詠み人知らずとされている歌であるが、平安時代になって人麻呂の歌とされたものである。