小唄人生
8月23日の天声会の小唄会で唄うことになった小唄の一つ。「すだれ下ろした船の内 顔は見えねど羽織の紋は 確か覚えの三つ柏 呼んで違わばなんとしょう 後や先とで心が迷う エエもうじれったい 船の内」
隅田川の船遊びの風景を唄った江戸小唄で、安政のころ流行った端唄が元になっている。隅田川の船遊びは、元禄の頃からの風習で、文化・文政の頃が最も盛んだったらしい。春は花見船、夏は涼み船、秋は月見船と、両国橋を中心に、江戸の人はよく遊んだようだ。
屋根船は、客がお侍の場合は、障子を立てて中が見えなかったが、町人の場合は、すだれを下ろさせ、中が透けて見えるようにするのが決まりであった。船の中に酒肴を持ち込み、三味線や太鼓で賑やかに騒ぐのもあれば、芸者と二人だけで逢う瀬を楽しむのもあった。天保の頃には、船の一隅に吉原枕が二つ常備されるようになった。
浅草の近く、隅田川の畔に、大きな松の木があって、その辺に来ると船頭に煙草が切れたからと言って余分の金を渡して買いにやらせると、船頭も心得ていて、船を松の木にもやったまま、イットキ(二時間)も経たないと帰って来ない。その間に女を口説いてものにするわけ。それでその松の木を「首尾の松」と言ったが、関東大震災のとき焼けてしまって今はない。
隅田川の船遊びの小唄は、「すだれ下ろした」の他に沢山あって、「川風に」、「涼み船」、「上げ汐」、「今宵は雨」、「上手より」、「影絵」、「腕守り」と、数え上げるときりがない。小唄の文句を全部紹介する訳にもいかないが、夏の季節のものが多く、概して色っぽい。
中東情勢
日本古代史にばかりかかずらっていたら、ブログ・メイトさんの、時事問題に弱いという記事が目に入った。そこで読者の一人として、私なりの理解を纏めてみたので、ご参考に供したい。
世界の情勢は、皆夫々深い根を持っているが、特に中東情勢は複雑である。この複雑な世界の渦巻きの中心にいるのがアメリカである。そのアメリカの中でも、大きな渦巻きが幾つもあって、互いに鬩ぎ合っている。中でも、最近注目されるのがネオコンと称されるタカ派のグループで、その考え方は次のようなものである。
《単独覇権主義》=アメリカが世界で唯一の超大国である状態が永続することが望ましく、アメリカに対抗する国や国家連合の台頭を許さない。
《先制攻撃》=大量破壊兵器(核爆弾)を、これから持とうとする国に対しては、先制攻撃を仕掛けて、これを阻止する。
以上のタカ派の論理は、言わば強者の論理であるが、EU(ヨーロッパ連合)やアラブ諸国との国際協調関係重視する中道派の考え方とは真っ向から対立するものである。しかし、アメリカの巨大な軍事産業の代理人であるタカ派勢力は、巨大資本と結託して次第に政治力を増して行った。
2000年の大統領選挙で、ブッシュがタカ派の支持を得て勝利すると、ネオコン=タカ派勢力は、ブッシュ政権の中枢に入り込み、ブッシュの政治政策に大きな影響を与えるようになった。911テロ事件を機に、「単独覇権主義」や「先制攻撃」が次々と実現され、2003年のイラク侵攻もこの方針で実施された。
アメリカの主導によるイラク侵攻は、イラクが大量破壊兵器を保有していると言うガセネタに踊らされた結果であるが、本音は、世界一の産油国で、アメリカと対立するイラクのフセイン政権を倒して、アメリカの利権を確保したいという腹積もりで先制攻撃を仕掛けたが、大量破壊兵器は出て来ず、アメリカが泥沼にはまり込む結果となった。
イスラエル・レバノン戦争に至るまでにはまだ曲折があり、あまり長くなるので次回に譲るが、ここで忘れてならないことは、アメリカの巨大な軍事産業資本の代理人であるタカ派=ネオコンの中核をなすのがユダヤ系の人々であり、その母国がイスラエルであると言うことである。テロ組織のアルカイダから見ると、イスラエル=ユダヤ系=ネオコン=アメリカ覇権主義となるのであり、アメリカのお先棒を担ぐ国は全てテロの対象になると言う図式になる。ところが、アルカイダによるテロそのものが、戦争や利権で懐を肥やすユダヤ人の陰謀であるという説もある。ナチスに迫害されたユダヤ人の怨念。オオコワヤ!!!
小唄人生
江戸小唄に出てくる言葉で何気なく使っていますが、調べてみると夫々故事来歴があって、面白いのが幾つかあります。今日はそれを御紹介します。
『三千世界』=高杉晋作が品川の色町で流連(いつづけ)している間に作ったと伝えられる小唄に、「三千世界の烏を絞めて 主と朝寝がしてみたい」というのがありますが、その頃の品川には烏が沢山いて、毎朝カアカアカアとうるさいことだったのでしょう。ところで、「三千世界」というのは仏教語というのをご存知ですか。三千というのは千の3乗(10億)ということで、それほど多くの世界という意味で、つまり宇宙のことです。さすが言うことがでっかい。
『派手』=江戸初期、三味線が普及し始めた頃、ある検校が三味線のいい手を作ってこれを広めた。降って元禄時代に、京都の三味線の大家・柳川検校が、新しい賑やかな手を作って、これが流行した。そこで古い派の人たちは、自分たちが本手で新しい手を破手と言って軽蔑した。この破手というのが、いつの間にかけばけばしいというという意味に使われるようになり、「派手という字が使われるように」なった。
『野暮』=武蔵の国に谷保天神という神社があって、これが江戸の真ん中で御開帳をした。それが如何にも田舎臭い御開帳だったので、当時の江戸っ子は、「神ならば出雲の国に行くべきを 江戸で開帳やぼの天神」と狂歌を詠んでからかった。それ以来田舎くさい人を、やぼとかやぼてんとかいうようになり、「野暮」の字を当てた。ホントカネ?
『からくり』=平安時代に外国から輸入された細工仕掛で、紐で操る人形を「からくり人形」といった。それを略して「からくり」と呼ぶようになった。「からくりの ぱっと変わりしお前の心 陰で糸引く人が居る」という小唄はよく唄われる。
『十八番(おはこ)』=江戸末期、七代目市川団十郎が、市川家に伝わる当り芸(主に荒事)十八番を整理し、芸の秘訣を書き込んだ本を箱に仕舞って大切にしたことから出た歌舞伎言葉で、得意な芸という意味で江戸末期ころから使われるようになった。
『愚痴』=ものの道理が分からないという意味の仏教語「モーハ」を、三蔵法師が「愚痴」と漢語に訳して中国へ持ち帰った。552年に仏教が、百済経由で日本に伝来し、これを「ぐち」と音読みにした。江戸時代になって、言っても仕方のないことをくどくど言う意味に使われるようになった。
『岡惚れ』=「岡」という字には、「岡場所」、「岡っ引き」、「岡焼き」 などのように、本物でないという意味がある。よって「岡惚れは」、相手の上辺だけを見て、勝手に惚れることを言う。
日本古代史
中大兄皇子は、中臣鎌足に助けられて、大王家を蔑ろにする蘇我蝦夷・入鹿親子を倒し、数々の政治改革(大化の改新)を押し進め、古代天皇制の樹立に寄与した。645年、年号を「大化」と改め、都を難波に移し、豪族達の私有であった民と土地を取り上げて公地、公民とし、国、郡、里の地方行政区分を定め、国司、郡司を任命して地方行政を行わせた。また、戸籍法・班田収授法を始めて実施し、租、庸、調の統一税制を確立するなど、律令体制へのレールを敷いた。これらは総て中国や朝鮮の制度を導入したものであった。大和朝廷が対外的に「日本天皇」(やまとのすめらみこと)という標記を用い始めたのもこの頃である。
662年、中大兄皇子が即位して天智天皇(三十八代)となり、667年、都を近江に移した。672年、天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人(おおあま)皇子との間に皇位継承を巡って古代最大の内乱が勃発した。これを「壬申の乱」という。
亡くなった天皇の子と弟が皇位を争うに至った経緯については、日本書紀に詳しく記述されているが、100%真実とは受け取り難い。私の見た所では、天智天皇が元々猜疑心が強く、その上独裁者的性格だったので、彼の没後溜まっていたしこりが噴出したのが原因ではないかと思う。天智天皇が弟の大海人皇子と力を合わせて政治改革を進めていた頃はうまく行っていたのだが、天智天皇の子が成人すると、天皇は弟よりも息子の方を要職に付けて可愛がり、そのため弟は兄天皇を疎ましく思うようになった。天智天皇と大海人皇子が額田姫王(ぬかたのおおきみ)と三角関係だったことはよく知られているが、そんなことは、男女関係が大らかであった当時はそれほど深刻な問題ではなかった。
天智天皇が亡くなった後、大海人皇子は、政争を避けるため、当時離宮が置かれていた吉野に身を引き、仏門に入るといって皇位を辞退した。ところが大友皇子が兵を集め自分を討ちに来るという情報をキャッチして、逆に攻めなければ殺されると、自衛のため挙兵を決意した。天智天皇の専制政治に反感を抱いていた東国の豪族達が大海人皇子に味方し、大友皇子は戦に負け自害して果てた。673年、大海人皇子は凱旋して飛鳥に新しい宮殿を建てて即位した。これが天武天皇(四十代)である。
天武天皇は、次の持統天皇(四十一代 女帝)までの十四年間、一人の大臣も任命せず、政は総て皇后(後の持統天皇)と二人だけで取り仕切ったという、古代天皇制の完全実施者であった。因みに、当時の天皇は多妻制で、天武天皇は十人の妻妾を持ち、万葉の歌人・額田姫王もその中の一人であった。
また、大海人皇子が、大友皇子との決戦の前に、偶々伊勢で天照大神を祀った神社に戦勝を祈ったところ、勝つことが出来たので、この神社を皇祖神として祀るようになったのもこの頃からだと言う。
小唄人生
ブログメイト・kankianさんのブログで、首の両脇のおできが峠を越したと言う記事を書いておられたから、「峠々のその又先に 峠があるので面白い」と、小唄の文句でおどけたコメントを付けてやったら、「峠の茶屋で一週間も休みたい」とお返しがきました。峠々の小唄を作った人は、小野金次郎さんという大変粋な通人なんです。小唄の続きが、「赤にしようか 白にしようか」で、椿の花の色のことではありません。では、何の花でしょう。「峠々で摘む花の どれもよいやさ」ですって!!! 最後が「唄でやる浮世気ままな恋の旅」だって。あきれましたか。つまり、男の浮気の唄なんです。失礼しました。
「峠の茶屋で一週間も休みたい」なんて、人生の旅の疲れが滲みでているよう。でも、男も女も、しようがないですね。それこそ「しょんがえ」ね。恋も浮気も小唄の世界の一齣。「梅は咲いたか 桜はまだかいな」。これも浮気の唄。「浮気うぐいす ひいふうみい まだ住み慣れぬ庭伝い 梅おば捨ててこませもの ほうほけきょうの約束も 憎や隣りの桃の木に」。これは女の浮気。
kankianさんとブログを交換した記念に、こんど何処かの小唄会で、「峠々」の唄を唄ってやろうかしら。実を言うと、この前神田明神で、手古舞姿の人形でお目にかかった「神田福丸」姐さんがこの唄を唄っているテープを持っているのです。福丸姐さんは小唄の方では、「小唄幸万流」さんとおっしゃるのですが、いい声でね。私はファンなんですよ。
日本古代史
古代天皇制とは、大王(オオキミ 天皇は後から附けた名称)を取り巻く豪族達が、大王の威を借りて権力を恣にし、軍を動かしたり、民から税を取り立てたりする制度である。当時の大和朝廷は、豪族達によって支えられ、夫々氏毎に役割分担が決められていた。軍事は大伴氏、物部氏、財政や外交は蘇我氏、祭祀は中臣氏、忌部氏といった具合で、互いに勢力を争い、大王家(皇室)は言わば調整役のようなものであった。王権を支えるため、中央集権化が進み、民に対する収奪は一層きびしくなった。一方、豪族間の勢力争いも激しいものとなって行った。対立する者は、肉親や一族すらも攻め滅ぼした例は、枚挙に遑が無い。そういった中で、朝鮮からの渡来人を支配した 蘇我氏(先祖は渡来人)が次第に頭角を現し、蘇我稲目(馬子の父)は、娘を欽明天皇(二十九代)の妃となし、天皇の外戚として強大な権力を握り、朝廷を支配するようになった。
570年、蘇我稲目が死去し馬子が後を継いだ。585年、敏達天皇(三十代)が崩御すると、対立氏族であった物部守屋は、欽明天皇の子の穴穂部皇子を天皇に立てようとしたが、蘇我馬子がこれに反対し、稲目の血を引く用明天皇を立てた。587年、用明天皇が崩御すると、守屋が再び穴穂部皇子を担ぎ出そうとしたので、馬子は穴穂部皇子を殺害し、守屋を攻めて物部氏を滅ぼした。馬子は用明天皇のあと崇峻天皇(三十二代)を立て、蘇我氏専横の時代となる。
馬子は、馬子に叛いた崇峻天皇を暗殺させ、稲目の孫で敏達天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を立てて推古天皇(三十三代)とし、同じ蘇我の血筋で天皇の甥に当る厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とした。かくして蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。626年、蘇我馬子がこの世を去り、蝦夷(えみし)が後を継いだ。
643年、皇極天皇(三十五代)の代に、蝦夷の子の入鹿は斑鳩に兵を出し、馬子の孫に当る聖徳太子の長子・山背皇子(やましろのみこ 母は馬子の娘)とその一族を皆殺しにしたが、入鹿の横暴を憤る中大兄皇子・中臣鎌足に父の蝦夷と共に滅ぼされる。まさに血を血で洗う争いである。中大兄皇子は後の天智天皇(三十八代)であるが、よほど猜疑心の深い方だったようだ。自分の兄の古人皇子(ふるひとのみこ)やその一族を滅ぼし、更に有間皇子(中大兄皇子のライバル)も謀反に関わったとして殺した。
有間皇子が、中大兄皇子の疑惑を受け、殺されると知りながら護送される旅で詠んだ「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」という歌は万葉秀歌とされているが、自分の運命を悟って泰然と旅をする皇子の心中を思うと、涙を禁じ得ない。こんな素直な歌を作る人が、腹黒い陰謀などに加担する筈が無い。672年天智天皇が没し、その皇位継承を巡る古代最大の内乱(壬申の乱)が始まる。この内乱の結果旧豪族が没落し、天武天皇(三十九代)の即位により律令体制が確立される。
日本古代史
長い間、日本の紙幣や切手でお馴染みの聖徳太子の人物像については、今迄、あまり考えて見たことは無かった。私達が学校で教わったことは、第三十一代・用明天皇の第二王子・厩戸王として生まれ、一を聞いて十を知る英才で、第三十三代・推古女帝の皇太子兼摂政として、蘇我馬子と共に帝を助けて政治改革を断行、紀元603年に冠位十二階、翌年憲法17条制定、607年に小野妹子を隋へ派遣して隋との国交を開き、大陸文化の導入に努めた。特に、仏教の興隆に尽力し、法隆寺、四天王寺を建立するなど多くの業績を残したことが、古事記や日本書紀に書かれている。聖徳太子というのは後からの贈り名である。
ところが、色々史実を調べてゆくと、古事記や日本書紀の厩戸王の記述は信用できなく、後世の捏造である説が強くなった。推古女帝の摂政という事すらも眉唾になった。その当時の最高の実力者は蘇我馬子で、彼は第三十二代・崇峻天皇を目障りだとして弑逆した人物である。当時の政治は蘇我馬子が自分の欲しいままに操っていた。厩戸王は、後年、馬子から離れて、飛鳥から斑鳩に移り、紀元622年49歳で没した。
紀元643年、聖徳太子の長子・山背皇子(やましろのみこ)及び一族が、斑鳩で悉く蘇我入鹿(馬子の甥)に攻め殺された。このことが、第三十六代・天皇であり母である皇極女帝の皇太子・中大兄皇子にショックを与えた。蘇我一族の横暴に耐えられず、645年中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)を参謀としてクーデタを起こし、蘇我入鹿及び蝦夷(馬子の子)を誅殺した。後には蘇我氏に密着していた自分の兄の古人皇子及びその一族も皆殺しにした。646年、聖徳太子の政治理想を実現するものとして、「大化改新」の詔が発せられた。662年、第三十八代・天智天皇が即位し、蘇我氏に代わって藤原氏が権勢を振るうことになる。
聖徳太子が建立したとされる法隆寺は、太子の死後、670年に落雷による火災で全焼したが、仏教哲学者の梅原猛氏の説によれば、後に、太子の崇りを恐れて、藤原氏により再建されたという。その法隆寺は今に残り、世界最古の木造建築として世界文化遺産に指定された。
江戸の名所を歩こう会
7月30日(日)、邦楽の友社主催、江戸の名所を歩こう会に、友人の椿さんと一緒に参加。お天気は梅雨の晴れ間で快晴。10時、JR御茶ノ水駅聖橋口出口に集合。総勢23名。私と椿さんは始めての参加でしたが、顔見知りの人も何人か、邦楽の友の守谷社長、蓼の会の目賀田さん、菊地派会長の大川さん、室町小唄会の七条さんなど。歩き始めは先ず湯島聖堂へ。久しぶりのお天気で、蝉の声がしきり。聖堂では、責任者の方が懇切丁寧に説明して下さったので、大変勉強になった。ここの売店で、加藤道理氏著「字源物語」(明治書院)という本が面白そうなので買いました。
次はいくらも歩かず神田明神へ。ここでも社務所の方が、至り尽くせりのご案内。御祭神は、大己貴命(だいこく様)、少彦名命(えびす様)、平将門命(まさかど様)の三柱。大己貴命は、別名大国主命といい、スサノオ命の六世の孫で、出雲王国を治めた王。この社は、天平二年(730年)の創建で、元は大手町にあったが、神田の高台が江戸城の鬼門の方角になることから、慶長八年(1603年)、徳川家康の江戸入府の際、江戸の守り神として今の地に遷されたという。平将門は延慶二年(1309年)関東の英雄神としてこの社に祀られた。少彦名命は、明治七年、大洗磯前神社から分祀された。
大己貴命(おおなむち)は、天下太平、五穀豊穣を司る産土(うぶすな)神として祀られる神で、後から合祀された少彦名命(すくなひこな)とは、兄弟にように仲がよく、少彦名命は、小人神ながら何でもお見通しの神で、大己貴命の出雲の国作りをよく助けたという。平将門は、935年、時の朝廷に反抗し兵を挙げたが、逆賊の汚名を着せられ、天慶二年俵藤太の弓で討たれて死んだ。これを天慶の乱という。将門の首が京の街に晒されたが、何者かがこれを持ち去り、大手町に将門塚を建てて手厚く祀った。後に神田明神に合祀されたが、首塚は今でも大手町に残され、これを動かすと崇りがあると信じられている。
社殿の左脇に資料館があり、入館料300円のところ、特別に無料で見せてくれた。ここで思いがけなく、神田福丸姐さんの若かりし頃の手小舞姿の等身大の人形に出遭って驚いた。福丸姐さん本人が寄贈されたものという。そういえば福丸姐さんは、銭形平次と同じ明神下のお住まいでした。姐さんも私もまだ四十台の頃、明神下の茶屋でお会いした時は、顔も声も綺麗なねえさんでした。端唄も小唄も知らない私に、「からかさ」や「石川啄木」の唄を教えてくれたのを、今でも覚えています。何か唄ってご覧なさいと言われて、民謡の刈干切唄を唄ったのを記憶しています。その後、銀座の「バー小唄」で、二、三回お会いしました。その頃ゴルフも熱心にやっておられたようです。私は、今でも福丸姐さんのファンです。
神田明神で12時を廻ったので、そこから秋葉原まで歩いてゆき、あるお寿司屋さんで生ビールでのどを潤した後、大川氏から銘酒「八海山」を振舞われて、いいご機嫌で帰宅しました。
日本古代史
世界的アイヌ語学者として知られ、1971年(昭和46年)89歳で亡くなられた日本語学者の第一人者、文学博士・金田一京助氏(金田一春彦氏の父君)は、今から64年前の昭和17年に「国語の変遷」(ラジオ新書)を刊行された。私が、個人的興味から日本古代史を齧り始め、「日本語の始まり」というテーマについて、著名な言語学者・大野 晋(おおのすすむ)氏の、最近の比較言語学に基づく「日本語の起源」(岩波新書)を読んで、日本語の起源を南インドのタミル語(アルタイ語系)とする説を、7月21日のブログ紹介したが、驚いたことに、同じような結論を、今から64年も前に、金田一博士が述べておられるのである。
今から約一千三百年前、奈良時代には、日本語は話されていたが、日本語を現す字はまだ無かった。日本語そのものは、恐らく縄文時代か或いはもっと前に、日本列島がまだ大陸と陸続きであった頃からの、アイヌの先祖などの先住民族を北方へ追い払って侵入してきた南方系の部族が、稲作文化と共に持ってきたのが、原始日本語ではなかったかと思う。始めはタミル語であったかも知れないが、モンゴル、満州などを経由した長い間に語法は残っても、単語はすべて違ったものになっていたと思われる。原始日本語は、恐らく先住民族のアイヌ語や、関係の深かった朝鮮語なども、一部取り入れたりしたものもあったに違いない。アスカ、ナラ、コソ、ハタ、クレ、アヤなどは朝鮮語だと言われ、東北、北海道によくあるナイ、ベツは、沢、川を意味するアイヌ語であると言われる。
6世紀頃までには、儒教や仏教などはじめ中国の文化がどんどん入ってくる。そして日本のインテリの間では、漢字や漢文を使うことが普及し始め、漢字を用いて日本語を現すようになり、平安時代になると片仮名平仮名が一般的になり、漢字の多くが日本語の中に同化された。今までの日本語に無かった檀那など、濁音で始まる言葉や来世、利益(りやく)などラリルレロで始まる言葉が出現し、日本語の語彙が豊になった。その挙句、万葉集が万葉仮名で記録され、古事記や日本書紀が文字で記述され、日本文化の大きな遺産となった。
小唄人生
8月10日(木)、日本橋・好秀で催される上村幸以先生主催の室町小唄会で、「与三郎」、「湯上りに」を唄わせて貰える事になった。何れも歌舞伎の「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」を題材にした唄で、「与三郎」は、源氏店・強請りの場で、市川三升(十一代市川団十郎)の作、草紙庵の曲。「湯上りに」は、与三郎との縒りが戻って嬉しいお富が、湯上り後の洗い髪姿のまま、薄化粧をしている場面を唄ったもので、十二世片岡仁左衛門の曲である。
芝居は、1853年(嘉永六年)三月、中村座で初演、新作世話物として大当たりを取った。芝居の筋は、江戸の小間物問屋の若旦那・与三郎が木更津の浜で、土地の顔役・赤間源左衛門の妾・お富と、ふとしたことで懇ろになり、源左衛門の留守中、赤間の別荘で逢引しているところを見付かり、体中三十数か所も傷付けられ、命だけは助かるが、「切られの与三」と仇名をつけられ、やくざ者の仲間に入り、強請り騙りを事とするならず者・蝙蝠安の相棒になる。
一方、お富も死ぬ積りで木更津の海に飛び込んだが、和泉屋の番頭・多左衛門(実はお富の兄)の船に助けられ、鎌倉の多左衛門の妾宅に囲われて三年の月日が経つ。そこへ、図らずも蝙蝠安と一緒に強請りに入った与三郎が、死んだと思ったお富に出会い、「しがねえ恋の情けが仇」という有名な科白が始まる。筆者は中学生の頃、歌舞伎が好きだった父のお供で観に行ったが、十五世市村羽左衛門の与三郎、仁左衛門のお富、菊五郎の蝙蝠安という豪華コンビで、今でも羽左衛門の鼻にかかった科白が耳に残っている。
「与三郎」の歌詞は、「しがねえ恋の渦巻きも 流れ流れて木更津から 巡る月日も三年ごし 見越しの松も色変えぬ 黒板塀の源氏店 『帰った後は差し向かい』『ヘヘ妬きゃがるな』『そんなんじゃねえや』、紋に橘、格子に牡丹、うちの様子を菊の花」で、与三郎と蝙蝠安の科白の掛合いがこの唄の聴かせ所。橘は羽左衛門の紋。牡丹は市川家の紋。菊は梅幸の紋である。
「湯上りに」は、昭和51年、筆者がまだ小唄駆けだしの頃、師匠から習った唄で、その頃はまだ唄の前後の意味も分からずに唄っていた。「湯上りに誰を目当ての薄化粧 水前刷毛の浮名さえ 仇な横櫛洗い髪 しがねえ恋も久方の 思いがけない月の顔」。この唄をどれだけ色っぽく唄えるかが決め手。
「与三郎」の歌詞は、「しがねえ恋の渦巻きも 流れ流れて木更津から 巡る月日も三年ごし 見越しの松も色変えぬ 黒板塀の源氏店 『帰った後は差し向かい』、『ヘヘ焼きゃがるな』、『そんなんじゃねえや』、門に橘、格子に牡丹、うちの様子を菊の花」で、与三郎と蝙蝠安の科白の掛合いが、この唄の聴かせ所。橘は羽左衛門の紋。牡丹は市川家の紋。菊は梅幸の紋である。
「湯上りに」は、筆者が昭和51年、まだ駆け出しの頃、師匠から習った唄で、唄の前後の意味もも分からず唄っていた。「湯上りに誰を目当ての薄化粧 水前刷毛の浮名さえ 仇な横櫛洗い髪 しがねえ恋も久方の 思いがけない月の顔」。横櫛に洗い髪姿が美しいと言われたお富が、思いがけなく与三郎に出会い、浮き浮きと薄化粧している様を、どれだけ色っぽく唄えるかが鍵である。