日本古代史
長い間、日本の紙幣や切手でお馴染みの聖徳太子の人物像については、今迄、あまり考えて見たことは無かった。私達が学校で教わったことは、第三十一代・用明天皇の第二王子・厩戸王として生まれ、一を聞いて十を知る英才で、第三十三代・推古女帝の皇太子兼摂政として、蘇我馬子と共に帝を助けて政治改革を断行、紀元603年に冠位十二階、翌年憲法17条制定、607年に小野妹子を隋へ派遣して隋との国交を開き、大陸文化の導入に努めた。特に、仏教の興隆に尽力し、法隆寺、四天王寺を建立するなど多くの業績を残したことが、古事記や日本書紀に書かれている。聖徳太子というのは後からの贈り名である。
ところが、色々史実を調べてゆくと、古事記や日本書紀の厩戸王の記述は信用できなく、後世の捏造である説が強くなった。推古女帝の摂政という事すらも眉唾になった。その当時の最高の実力者は蘇我馬子で、彼は第三十二代・崇峻天皇を目障りだとして弑逆した人物である。当時の政治は蘇我馬子が自分の欲しいままに操っていた。厩戸王は、後年、馬子から離れて、飛鳥から斑鳩に移り、紀元622年49歳で没した。
紀元643年、聖徳太子の長子・山背皇子(やましろのみこ)及び一族が、斑鳩で悉く蘇我入鹿(馬子の甥)に攻め殺された。このことが、第三十六代・天皇であり母である皇極女帝の皇太子・中大兄皇子にショックを与えた。蘇我一族の横暴に耐えられず、645年中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)を参謀としてクーデタを起こし、蘇我入鹿及び蝦夷(馬子の子)を誅殺した。後には蘇我氏に密着していた自分の兄の古人皇子及びその一族も皆殺しにした。646年、聖徳太子の政治理想を実現するものとして、「大化改新」の詔が発せられた。662年、第三十八代・天智天皇が即位し、蘇我氏に代わって藤原氏が権勢を振るうことになる。
聖徳太子が建立したとされる法隆寺は、太子の死後、670年に落雷による火災で全焼したが、仏教哲学者の梅原猛氏の説によれば、後に、太子の崇りを恐れて、藤原氏により再建されたという。その法隆寺は今に残り、世界最古の木造建築として世界文化遺産に指定された。