日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

 古代天皇制とは、大王(オオキミ 天皇は後から附けた名称)を取り巻く豪族達が、大王の威を借りて権力を恣にし、軍を動かしたり、民から税を取り立てたりする制度である。当時の大和朝廷は、豪族達によって支えられ、夫々氏毎に役割分担が決められていた。軍事は大伴氏、物部氏、財政や外交は蘇我氏、祭祀は中臣氏、忌部氏といった具合で、互いに勢力を争い、大王家(皇室)は言わば調整役のようなものであった。王権を支えるため、中央集権化が進み、民に対する収奪は一層きびしくなった。一方、豪族間の勢力争いも激しいものとなって行った。対立する者は、肉親や一族すらも攻め滅ぼした例は、枚挙に遑が無い。そういった中で、朝鮮からの渡来人を支配した 蘇我氏(先祖は渡来人)が次第に頭角を現し、蘇我稲目(馬子の父)は、娘を欽明天皇(二十九代)の妃となし、天皇の外戚として強大な権力を握り、朝廷を支配するようになった。


 570年、蘇我稲目が死去し馬子が後を継いだ。585年、敏達天皇(三十代)が崩御すると、対立氏族であった物部守屋は、欽明天皇の子の穴穂部皇子を天皇に立てようとしたが、蘇我馬子がこれに反対し、稲目の血を引く用明天皇を立てた。587年、用明天皇が崩御すると、守屋が再び穴穂部皇子を担ぎ出そうとしたので、馬子は穴穂部皇子を殺害し、守屋を攻めて物部氏を滅ぼした。馬子は用明天皇のあと崇峻天皇(三十二代)を立て、蘇我氏専横の時代となる。


 馬子は、馬子に叛いた崇峻天皇を暗殺させ、稲目の孫で敏達天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を立てて推古天皇(三十三代)とし、同じ蘇我の血筋で天皇の甥に当る厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とした。かくして蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。626年、蘇我馬子がこの世を去り、蝦夷(えみし)が後を継いだ。


 643年、皇極天皇(三十五代)の代に、蝦夷の子の入鹿は斑鳩に兵を出し、馬子の孫に当る聖徳太子の長子・山背皇子(やましろのみこ 母は馬子の娘)とその一族を皆殺しにしたが、入鹿の横暴を憤る中大兄皇子・中臣鎌足に父の蝦夷と共に滅ぼされる。まさに血を血で洗う争いである。中大兄皇子は後の天智天皇(三十八代)であるが、よほど猜疑心の深い方だったようだ。自分の兄の古人皇子(ふるひとのみこ)やその一族を滅ぼし、更に有間皇子(中大兄皇子のライバル)も謀反に関わったとして殺した。


 有間皇子が、中大兄皇子の疑惑を受け、殺されると知りながら護送される旅で詠んだ「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」という歌は万葉秀歌とされているが、自分の運命を悟って泰然と旅をする皇子の心中を思うと、涙を禁じ得ない。こんな素直な歌を作る人が、腹黒い陰謀などに加担する筈が無い。672年天智天皇が没し、その皇位継承を巡る古代最大の内乱(壬申の乱)が始まる。この内乱の結果旧豪族が没落し、天武天皇(三十九代)の即位により律令体制が確立される。