万葉の世界 | 八海老人日記

万葉の世界

 万葉集の女流歌人の中で、一番人気のあるのは額田王(ぬかたのおおきみ)であろう。人気の理由は、先ずクレオパトラもはだしで逃げ出すような美人であったらしいということ。それに、才長けて恋多き女であったということのようだ。


 いつ生まれていつ死んだか、はっきりしていないが、日本書紀には鏡王(かがみのおおきみ)の娘と出ているが、妹という説もある。若しかしたら、鏡王というのは、渡来人の子孫かもしれない。

 

 若くして中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)の愛人となり、十市皇女(といちのみこ)を生んだ。中大兄皇子が中臣鎌足と組んで蘇我蝦夷、入鹿親子を滅ぼし、三十八代天智天皇に即位すると、額田王も妃の一人に召され、帝の寵愛を受けた。十市皇女も天智帝の息子・大友皇女の妃となり、幸せに暮らした。天智帝が亡くなり、皇位継承を巡って壬申の乱が勃発、十市の皇女は、父と夫が敵味方となって争うこととなり、悲劇のヒロインとなった。結果は、夫の大友皇子が敗れて自殺、大海人皇子が皇位を継いで三十九代天武天皇となり、額田王は再び天武帝の妃となり、十市皇女は病死した。


 天智帝が667年3月、都を大和の飛鳥から近江の大津に遷したとき、妃の一人として遷都の旅に随行した額田王は、長年見続けた故郷の山に別れを告げるとき、「三輪山を しかも隠すか雲だにも 情けあらなも 隠そうべしや」。(三輪山をどうしてそんなに隠すのか せめて雲だけでも情があって欲しい)と詠んだ。


 天智帝が弟の大海人皇子を連れて、琵琶湖畔の蒲生野(がもうの)で狩を催し、狩の後で宴会となった。天智帝の妃であった額田王もお供をして、久しぶりに逢った元の愛人・大海人皇子とは、いいムードになったようだ。額田王がはしゃいで歌を披露した。「あかねさす 紫野ゆき標野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は宮廷人が好む紫色染料の原料となる紫草の自生地。「標野」は皇室が狩猟などに使用する原野。何れも野守を置いて一般の立入を禁じた。(紫草の生えている野原を私が歩いて行くと、まあ、あなたったら、あんなに手を振って。野守が見ているじゃありませんか)。


 額田王の歌の「君」とは誰を指すのか。宴席に居並ぶ人達は固唾をのんで成り行きを見守る。大海人皇子が、すくっと立って返歌を読み上げた。「紫の匂える妹を憎くあらば 人妻故に我恋めやも」。(紫草のように香しい貴女が憎いなんていう訳ない でも貴女は人妻なんだから、どうして私が恋したりしましょうか)。今は天智帝の寵を受けている額田王に花を持たせた返歌の見事さに、みんなやんやと喝采し、宴は大いに盛り上がった。


 二人の男性に愛された女盛りの額田王の幸せな一日でした。そういえば天智天皇は、歌はあまり得意ではなかったようだ。百人一首の天智天皇作とされている、「秋の田の 仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」という歌は、ほんとうは万葉集の中の読人知らずの歌なんだそうだ。