万葉の世界 | 八海老人日記

万葉の世界

 8月29日のブログ、万葉の世界のテーマ・人麻呂以前に、防人について少し触れたが、その後、防人について書かれた文献を読んで気がついた事がある。文献には、防人とは北九州周辺防備のため徴発された東国の農民たちであると記述されているが、それは少し正しくないと思われる。


 防人とは、東国の農民たちと、十把ひとからげにしているが、住民にもいろいろある。肉体労働だけの農民もいたであろうが、旧豪族の子孫たち、渡来人や帰化人たちの子孫で、機織、焼き物などの職を持つ者たちなど、色んな住民がいたに違いない。特に豪族の子孫たちは、自分の土地は自分で守る武力を持った武士に近い郎党たちもいた。防人に徴用されたのは、主にこれらの若者が中心であったと思われる。専業農民の中には、徴発されると、忌避逃亡する者も多くいたらしい。豪族の子孫たちは、教養もあり、中には歌詠みもいた。大化改新で公民となってからは、天皇の民としての誇りを持つ者もいた。徴発されると自前の武器を持って召しに応じた。


 755年、兵部少輔(ひょうぶしょうふ・徴兵係りの役人)に任命された大伴家持が、たまたま防人の任務交代の時期に当たり、新たに徴発した二千人ほどの防人集団に歌の提出を命じた。家持は、東歌などで東国の住民の中にも歌詠みがいることを知っていた。そのとき集まった166首の内84首を選んで、万葉集巻に十に収録した。これが防人歌と言われるものである。防人たちは任地へ赴く途中でも歌を作った。これは専業農夫のなせる業とは到底思えない。「我が妻も絵に描きとらむ暇もが 旅行くあればみつつしのはむ」は、物部古麻呂の作で、物部氏の子孫かもしれない。「吾等旅は 旅と思ほど家にして 子もち痩すらむわが妻かなしも」は玉作部広目の作で、渡来人の子孫かもしれない。中にはこんな変わった歌もある。「ふたほがみ 悪しけ人なりあた病 わがするときに 防人にさす」。「ふたほがみ」は布多郡の長官、「あた病」は急病のこと。(布多郡の長官は悪い奴だ、わしが急病だと言うのに防人にしやがって)。


 防人の歌の殆どが父母妻子など肉親を思う歌であるが、万葉集巻二十に、大伴家持が防人の身の上を思いやって作った長歌と短歌がいくつか載せられている。その内の一つ、「丈夫のゆき取り負いて出でて行けば 別れを惜しみ嘆きけむ妻」。「ゆき」は矢を束ねて入れる筒状のもの。