万葉の世界 | 八海老人日記

万葉の世界

 万葉の世界は、人麻呂を措いては語れない。しかし万葉には、人麻呂以前の歌や東歌、防人歌など、地方農民たちの歌も数多く収録されている。前のブログに書いた四世紀初頭の仁徳帝のお妃・磐姫(いわのひめ)の歌は特別例外として、万葉集巻一の雑歌の冒頭に収められている二十一代・雄略天皇の歌とされる「籠(こ)もよ み籠もち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち・・・」や、三十四代・舒明帝の歌とされている有名な国見の歌「大和には むらやまあれど とりよろう天の香具山・・・・」などは、人麻呂の時代から百年~五十年も前の歌である。なお古事記には百十首もの伝承歌謡が載せられているが、一部の伝承歌がなぜ万葉集に取り入れられているのかについては明らかでない。


 舒明帝の皇后が後の斉明女帝となり、舒明帝の子の中大兄皇子が皇太子の時、有間皇子の事件が起きた。有間皇子は三十六代・孝徳天皇の子で、天皇の後継者の一人と目されていた。猜疑心の強い中大兄皇子が、自分の地位を侵されるのではないかとの思いから、有間皇子が謀反に加担したと濡れ衣を着せ死刑にした。有間皇子が捕らえられ、中大兄皇子の許に送られる途中、磐代というところで歌った二首が、万葉集巻二の晩歌の部に収められている。

 「磐代の 浜松が枝を引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む(141)」

 「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(142)」

 有間皇子は、中大兄皇子の前で、きっぱりと身の無実を訴えたが、中大兄皇子は許さず、つるし首にしてしまった。有間皇子が死の予感を胸に秘めて、なお淡々とこれだけの情感溢れる表現が出来ると言う事は、有間皇子の人間性と文学的才能を感じずにはいられない。


 有間皇子事件の翌〃年(660)、新羅が唐と組んで百済を攻めて首都を陥落させ、百済国王とその一族は唐の長安に拉致されてしまい、百済から日本に救援を求めてきた。当時、親百済派だった中大兄皇子・鎌足らは政府や斉明女帝を動かし、朝鮮半島派兵を決定した。その結果は、白村江の戦いなどで唐・新羅の連合軍に破れ、663年日本軍は引き上げてきたが、唐・新羅が日本侵攻の恐れもあり、九州方面の海岸線の防備を固める必要が生じた。このため東国の農民が兵役に着くため動員された。これが「防人(さきもり)」である。万葉集巻二十には93首の防人たちの歌が収録されている。この防人歌の殆どは妻子を恋うる歌であるが、一部は天皇を称える歌である。しかしこれは役人に阿るために作られた可能性が強い。「今日よりは顧みなくて大君の醜のみ盾と出立つ我は」。この歌を詠むと、太平洋戦争に駆り出された若い頃を思い出す。