万葉の世界 | 八海老人日記

万葉の世界

 bulog1933さん、kankianさん、私の「万葉の世界」のブログ開始を励まして下さって有難う。老いの力が沸いて来ました。豚も褒めらりゃ木に登ります。ブログ上を借りて厚く御礼申し上げます。


 万葉集の中で一番古い歌は、四世紀の初頭、仁徳天皇のお妃となった磐姫(いわのひめ)の歌である。虚像で固められた仁徳帝については、7月8日の私のブログに書いたが、色好みの帝であったことは事実のようだ。磐姫は葛城氏の出自で、人一倍嫉妬深い焼餅焼きであつたとされているが、ただの焼餅焼きではなかった。命がけで仁徳帝を愛した張り裂けるような心の叫びが、幾つもの歌に残されている。「かくばかり恋いつつあらずは高山の 磐根し枕(ま)きて 死なましものを」(これほどに切ない思いで恋い焦がれているよりは いっそあの高い山の岩を枕にして死んでしまいたい)、「ありつつも君をば待たむ 打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに」(浮気をして帰ってこない貴方を、このまま待っていましょう 長く波打つ私の黒髪に、明け方の霜が置くまで)。後世の和歌が、技巧的になったのに対し、素朴で率直な心情を吐露する万葉の歌に私たちは心を惹かれる。


 これとは逆に一番新しい歌は、八世紀の中ごろ、大伴家持によって詠まれた次の歌である。「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや頻け吉事(しけよごと)」(新しい年の初めの初春の今日 降りしきる雪のように目出度い事が重なって来い)。大伴家持は、758年6月16日、因幡守に任ぜられたが、これは家持にとっては不遇の人事であった。翌年の正月、家持は赴任先で国郡司たちを饗す席で、この歌を詠んだ。家持42歳の時であった。この日以来、家持は筆を折り、68歳で死ぬまで一首の歌も記録に遺されていない。この「歌わぬ歌人」について、後世色々の意見が述べられたが、私の考えでは、家持は歌人ではあったが、同時にいや、それ以上に王家のための仕事に働く行政官だったのだと思う。


 家持は、因幡守になってから4年後、今で言う宮内庁長官に任命された。そこで驚いたのは宮廷の腐敗ぶりであった。四十六代・孝謙女帝が、淳仁帝に四十七代の皇位を譲り、上皇として淳仁帝を牛耳っていた。そこへ取り入って、孝謙帝とただならぬ関係になったのが道鏡である。時の太師(今の総理)・太政大臣で政治の実権を握っていたのが藤原仲麻呂で、仲麻呂が自分の子を三人も大臣にしたのを怒って、藤原良継という過激派が、仲麻呂を殺そうと企んだ。これを道鏡が仲麻呂に密告し、中立派の家持にまで嫌疑が及んだ。良継の否定で死は免れたが、家持は、764年1月、薩摩守に左遷された。仲麻呂が、目に余る上皇を除こうとして起こしたクーデタに失敗し、家族と共に斬られた。その後道鏡が太政大臣・法王となり、やがて皇位を伺うことになる。こんな乱れた政治情勢の中で、歌どころではないというのが、当時の家持の心境ではなかったかと思う。しかし、家持が編纂し、二十巻の歌集に纏めてくれたお陰で万葉集は残った。