日本古代史
私達が学校の歴史の時間で、仁徳天皇の御歌として教わった「高き屋に上りて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」という歌は、実は十世紀頃作られたもので、読み人知らずの歌であることが判っている。私達が頭に画いていた仁徳天皇のイメージは、全くの虚像であって、実は、中国の史書などを参考にして、古代王者の理想像として創られたものだったようである。実像は、色好みの大王で、御妃はすごい焼餅焼きだったらしい。
第十五代応神天皇、第十六代仁徳天皇の在位は4世紀の始めとされており、その御陵が大阪地方にある。誉田山(こんだやま)古墳及び大山(だいせん)古墳がそれである。これらの御陵は、宮内庁の管理下にあり、学術調査に立ち入ることは出来ないのが現状である。しかし、これらの巨大古墳が作られたのは、5~6世紀の所謂古墳時代中期であることが判っており、これらの巨大古墳は、当時、中国や朝鮮からやってくる使節たちに日本の国威を見せるために造られたもので、応神、仁徳両帝の陵墓である可能性は少ない。
これらの古墳の学術調査を実施すれば、色々な貴重な事実が瞭かになることは間違いない。それなのに日本の文部科学省は、一体何を考えているのか、想像に苦しむ。菊のカーテンの陰に隠れて、あくまでも万世一系の皇統伝説を守り、皇国史観を温存しようとすることに捉われているとしか考えられない。その幻にしがみ付いているのが、日本の国家主義者たちの実態ではないのか。
速やかに総ての天皇陵の学術調査を認める法律を作り、これに基づいて逐次調査を実施すれば、考古学の進展と相俟って、日本の歴史研究は、飛躍的進歩を遂げるに違いない。既に日本書紀には、6世紀の始まり、第二十六代継体天皇の前で、一時皇統が途絶えたことが記されており、今更無理に万世一系などと格好をつけることも無いのではないかと思う。