小唄人生
一昨日午後一時から、神楽坂・志満金で、佐々舟洋さんの洋舟会、鶴村寿々豊さんの寿々豊会合同の浴衣会が催され、私もゲストで参加させてもらった。私と寿々豊さんとは長いお付き合いで、私が小唄というものを習い始めた頃、大学のクラスメートで一番の親友であった白井という男が、私より小唄は先輩で、私が小唄にのめり込んで行ったのも、多分にその男の影響があったと思われる。白井君の小唄の師匠は、鶴村寿々敏さんといって、鶴村派家元・寿々さんの一番弟子だった人で、寿々豊さんはまた寿々敏さんの一番弟子だった。私も白井君との繫がりで、寿々敏さんの小唄の会によくゲストで出させてもらった。
白井君が七年前癌で亡くなり、その後寿々敏さんも亡くなって、寿々豊さんも独立したが、寿々豊さんの一番弟子の斎藤さんという人も病気で小唄を止めてしまったので、寿々豊さんも寂しく思っておられるだろうが、なんとか頑張って師匠を続けておられる。私が10月の三越劇場での夜雨会に出られることになったのも、元々斎藤さんと寿々豊さんのコンビで出演される筈だったのが、斎藤さんが出られなくなったので、私にお鉢が廻ってきたという訳で、これも白井君からの縁ということになるのだろうか。
洋舟会、寿々豊会合同の浴衣会に、天声会から十人ほどゲスト出演したが、その中で印象に残ったのは、トリを唄われたKさん唄である。曲目は「サングラス」と「瀬を早やみ」で、どちらも久保田万太郎作詞、山田抄太郎作曲で、この内サングラスは、私も唄ってみたいと思っていた曲であるが、この唄には、次のようなエピソードがある。
昭和36年4月、万太郎が癌の疑いで慶応病院に入院した時、愛人(夫人とは別居)の一子(かずこ)は、泣き顔を人に見られたくなくて、何時もサングラスを掛けていた。癌の疑いが晴れて退院する時、初めて万太郎にそのことを打ち明けた。一子の真情に打たれて作詞したのがこの「サングラス」という唄であった。これに山田抄太郎が絶妙な曲付けをした。この曲を翌年5月、新橋演舞場で、新派・花柳章太郎の恩師・喜多村の三回忌の追善舞台となった万太郎作・演出による「遅ざくら」の幕切れの場面で、唄・佐橋章子、糸・三升延でこの唄を聴かせながら、独り花道を去って行く章太郎の演技が実に素晴らしかったという。万太郎の愛人・一子は、この年の12月、蜘蛛幕下出血で世を去り、万太郎も翌38年5月、お寿司屋で食べた赤貝が喉に詰まり窒息して死んだ。
参考までにサングラスの歌詞を記す。「サングラス掛けもこそすれ沖の石 乾く日もなきわが涙 人に知られじ悟られじ 掛けもこそすれサングラス」。この中の、「沖の石」というのは、百人一首に出てくる「わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」からの「沖の石」で乾くと言う言葉の掛詞。