小唄人生
小唄の習い始めの頃、新橋四丁目の第一京浜に面した辺りに、ハモニカ横丁みたいな酒小路(ささこうじ)という飲み屋街があって、そこへよく呑みに行った。バラックに毛が生えたような小さな店が並んでいて、その中にお浜さんのお店があった。お浜さんは、その頃もう八十近い芸者上がりで、小唄の師匠をしていた。お店で三味線を弾いてくれて、小唄や都々逸やさのさなどを教えてくれた。「岡惚れしたのは私が先よ 二人が中に置炬燵 手出ししたのは主が先」というアンコ入り都々逸はお浜さんが教えてくれたものである。
お浜さんの店を紹介してくれたのは、Nさんといって、もう亡くなってから二十年以上になるが、建設業務の応援のため北海道から転勤してきて、上司から奨められて小唄を習い、無類の酒好きであった。私とは馬が合うというか、安い店、焼き鳥の旨い店など、色んな飲み屋を教えてくれた。私が小唄を始めたと聞いて、すぐお浜さんの店へ連れて行ってくれた。Nさんはお浜さんの小唄の弟子で、毎週水曜日、お店の二階でお稽古を付けてもらっていた。大人が一人やっと足が伸ばせるほどの広さで、立つと天井に頭がぶつかりそうな二階だった。そんな所でも、差し向かいで、結構乙なもんだよ、などと言いながら通っていた。
私は、お浜さんとは違う師匠に習っていたが、一度お浜さんに頼まれて、日本橋三越の前にあった第一證券ホールの小唄会にNさんと一緒に出さしてもらったことがある。ゴルフもNさんの奨めで新千葉カントリーのメンバーになり、ゴルフの帰りによく麻雀をやった。Nさんが急死したのは、昭和六十年前後だったと思うが、新年の初出社の翌日だった。前日の1月4日は、社長の挨拶を聞いた後、祝い酒を早々に切り上げ、麻雀屋へ駆け込むのがしきたりで、私が麻雀屋へ着くと隣りのテーブルにNさんが一人ぽつんといた。私のテーブルのメンバーも間もなく集まって麻雀が始まった。私達のテーブルが終了したのは九時過ぎで、Nさんたちのテーブルはまだやっていた。
Nさんの急死を知ったのは、会社の同僚から掛かってきた電話からだった。朝起きて来ないので奥さんが起こしに行ったら布団の中で冷たくなっていたという。夜中に心臓が止まってしまったらしい。お通夜にも告別式にも出かけていった。奥さんが呆然としていた。告別式にはお浜さんも来ていた。大晦日の前日、お浜さんのところへNさんが年末の挨拶に来たそうだ。そのときNさんが「長々お世話になりました」って言うから、あんた小唄辞めるのって聞いたら、そうじゃありませんというけど気になっていたんだそうだ。運命の神がNさんの命運がないのを知っていてそんな挨拶を言わせたに違いない。その後お浜さんは、時々Nさんの夢を見たという。「Nさんが私の髪の毛を引っ張るんだよ」と、お浜さんも暫らくNさんの亡霊に悩まされていたようだった。