日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

 「日本書紀」の中に出てくる話。第十一代垂仁天皇の御代、大和の当麻(たぎま)と言うところに大層強い男がいて、自分と相撲して勝てる男がいたら会って見たいものだ、と周囲に吹聴していると言う話が天皇の耳に入った。すると天皇は、「当麻蹴速(くえはや)の噂なら私も聞いている。ほんとうにこれと互角に闘える男はいないのか」と言われたそうな。


 すると臣下の一人が進み出て、「出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という勇気のある強い男がいます。これを召し出して相撲を取らせては如何でしょう」というので、即日、出雲から呼んでその日のうちに勝負をさせた。二人は激しい蹴り合いになり、遂に宿禰が蹴速の肋骨や腰骨を折り砕いて殺してしまった。野見宿禰はこの縁で帝に仕え、蹴速の領地は全部没収され宿禰に与えられた。時に垂仁天皇七年の七月七日のことで、これが日本における相撲の始まりとされている。


 この話は、野見宿禰を相撲の神様にして拝んでいる日本相撲協会には悪いが、全くの作り話である。だいいち、垂仁天皇七年というと、紀元前三十二年で、その頃まだ日本に暦は無かった。暦が中国から入ってきたのは六世紀末の頃。折口信夫と言う人の説によれば、相撲の起源は、民俗劇からだという。悪霊が村人を苦しめるので、村人の中から力の強いものが出てきて悪霊をねじ伏せる、といったもので、舞踊劇みたいなものだったかも知れないが当にはならない。然し、起源640年、皇極天皇(女帝)の代に、宮廷で天覧相撲が催されてという記録が残っているから、その頃、相撲は結構人気があったものと見える。


 野見宿禰が当麻蹴速を相撲で蹴殺したという話を伝承したのは土師連(はじのむらじ)の一族である。土師氏は代々宮廷の喪葬を司る氏族で、野見宿禰の子孫に当る。野見宿禰は出雲の豪族の出で、この後に出た竹内宿禰(たけのうちのすくね)は、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇まで仕え、模範的臣下の象徴と言われた。野見宿禰が当麻蹴速を蹴殺したという話の真相は、出雲の豪族であった野見宿禰が大和の当麻氏の土地を力ずくで奪い取った話を粉飾したものであろう。