八海老人日記 -20ページ目

日本古代史

最近、時々考える。日本はいつごろからヤマトと呼ばれるようになったのだろうか。古くから大和や倭という字が、本来の読み方でないヤマトという言葉に当てられ、大和魂、大和心、大和撫子、大和民族など、誰も疑問を持たず日頃使っているが、思えば不思議である。辞書を引くと、古代朝廷のあった土地の名から国名として使われるようになったとあるが、これは答にならない。


 昨年手術入院中、古事記を読んでから、日本古代史に興味を持ち始め、先月韓国旅行を思い立ったのも、日本古代史に関係の深い韓国をこの眼で見、この足で踏んでみたかったからで、日本ではその昔、古事記や日本書紀を作るとき、時の権力者に都合の悪い文書は総て焼き捨てさせられ、真実は闇に葬られたという。今更、韓国を訪ねたからといって、昔の真実が分かる訳でもないが、一度も韓国へ行った事もないんじゃ話にならんと思った次第。


 昔、朝鮮半島南部から日本群島にかけて、ヤマト部族というのが次第に勢力を広げ、出雲族その他の豪族を制圧し、王権を立てた。その部族が住んだ土地をヤマトと言った。他にも出雲とか吉備とか各地に豪族がいて、夫々王国を作っていた。ところがヤマト部族というのは、大変好戦的部族で、朝鮮半島や日本の各地を荒らし回り、他の豪族たちを制圧したり懐柔したりして、どんどん呑み込んで行ったらしい。そして遂に天皇家を創設し、日本はヤマト部族が統治する国だと勝手に決めたようだ。


 古事記にカムヤマト(神武天皇)やヤマトタケル(日本武尊)の名が出てくるが、カムヤマトのヤマトは「倭」の字が当てられており、「倭」も「大和」も大陸側から付けられた名称のようだ。但し、「倭」は夷に通ずる侮蔑語で大和は朝鮮半島南部の部族の名称。その本拠地がヤマトであったことから、「倭」も「大和」もヤマトと呼ばれた。どうもヤマト部族というのは、大陸から渡来した有力者の子孫らしい。息長族(オキナガ族)という海人族を先祖に持つ有力な豪族もいたが、天皇家に服従し、天皇にお后を奉る役目を持っていたらしい。神功皇后は、オキナガタラシヒメという名で、息長族の出自である。


 大和魂、大和心などがいつから日本精神を象徴する言葉になったのかは、研究課題であるが、多分本居宣長あたりと思われる。彼は江戸中期の国学者であるが、天照大神を宇宙の神と信じる大変なナシュナリズムの信奉者で、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」という有名な歌を残したが、私はあまりいい歌だと思わない。だけど前の戦争では、この精神でどれだけ日本の若者が命を捨てたことか。


 

小唄人生

 日本橋室町に「室町小唄会」という小さな小唄の会がある。この会のことは、2月10日のブログに書いたから繰り返さないが、小唄界の大御所・上村幸以氏を囲む小唄の会である。日本橋の昭和通に近い「好秀」という小料理屋さんに、毎月十人前後の小唄好きが集まって小唄の会を催している。糸方は、春日とよ津多師匠とこの店のご主人・蓼好秀さん。集まった客を籤引で順番を決め、柳田満之さんという方の司会で二巡、二、三曲をご披露する。その間適当にご馳走を突きながら飲むという誠にいい気分の会である。


 私はこの次の6月8日の会に出席を申し込んであるが、お店が狭いので、先着11名で締め切りとなるから出席出来るかどうかまだ分からない。その時唄う予定の曲は、浦上紀庵作、草紙庵曲の「網島心中」と江戸小唄の「逢うは別れ」。「網島心中は」、近松門左衛門作・「心中天の網島」から取ったもので紙屋治兵衛と遊女・小春の心中もの。この芝居は、初代・雁冶郎のすべてを代表する傑作であると言われる。この芝居を題材にした小唄は他にもあり、中でも小春が治兵衛の女房・おさんからの手紙で、冶兵衛と切れる決心をする場面を唄った「河庄」(豊竹厳太夫曲)が有名である。


 草紙庵の曲は、網島心中の最後の場面で、小春と冶兵衛が網島の大長寺というお寺を死に場所と決め、十月の十六夜の暁の鐘を聴きながら手に手を取って儚い霜の様に死ぬところである。時に小春は十九、冶兵衛は二十八であったという。この唄は、派手な唄い方でなく、如何に物寂しく、悲壮感を漂わせて唄うかが聞かせどころである。唄い手の表現力が問われる難しい唄である。


 もう一つの「逢うは別れ」は、明治中期、友人の洋行の送別会のために永井素岳が作詞し三世清元斉兵衛が作曲した江戸小唄で、送別の唄とも思えない何とも言えない色気がこの小唄の身上である。果たしてうまくうたえるかな???

三つの維新

 日本の歴史に興味を持つ人で明治維新を知らない人はいない。明治維新とは、一口で言えば、日本が封建・鎖国制度を打破し、天皇制復古・文明開化に大転換したことである。薩摩や長州の改革派が活躍し、坂本龍馬が歴史を動かした。錦の御旗を押し立てて、朝敵・徳川幕府を滅ぼし、薩・長が中心になって明治政府を樹立した。天皇制復古・文明開化を分かり易く言うと、「いざと言う時は天皇の為に死ね。列強に追い付き追い越すためため西洋文明を取り入れよ」ということである。明治政府はその目的達成のため「教育勅語」を公布した。「教育勅語」は、言わば明治政府の「教育基本法」であって、「愛国心の涵養」をもって国民教育の目標とした。、「愛国心の涵養」とは、言葉は立派であるが、中身は天皇のため命を差し出すよう国民を洗脳することであった。いままた同じ様なことが小泉政権下で行われようとしている。


 三つの維新というタイトルを掲げたが、二つ目は昭和維新。これは、昭和一桁生まれの人なら誰でも知っていると思うが、財閥と政党の癒着による政治の腐敗・堕落に憤った陸軍の青年将校達が唱えたもので、君側の奸を除かんとて起こした昭和11年2月26日のクーデター事件(2・26事件)が失敗に終ったため、昭和維新というのは日の目を見ず、画餅に終った。


 三つ目が平成維新。どちらかと言えば未来に属する話かも知れないし、三島割腹から繋がる現在進行形のことかもしれない。平成維新の特徴の一つは、これといった主役が現れないことである。国民が平和ボケで気が付かないでいる内に事が運ばれて行く。陰に隠れた主役は、実はアメリカ政府だったりして。むかしは日本国民は、万世一系の天皇のため命を捨てさせられたが、それに代わってこれからは、アメリカ自由主義のために命を捨てることを厭わない国民に教育されようとしている。これから憲法が改正され、同時に日米安保条約が秘密裏に改定される。日本は基地を提供するだけでアメリカ兵が血を流す条約から日本もアメリカと一緒に血を流す条約に変えられる。自由主義の美名のもとで覇権主義を地で行くアメリカの手先にされないようご用心。桑原々々!!!


 

小唄人生

 5月24日、神楽坂・志満金で行われる天声会の小唄会で、蓼静奈美さんの糸で「夜の雨」を唄うことになった。「夜の雨」は、髪結新三を唄った芝居小唄で、吉井勇の作詞は、「待てど来ぬ 人を恨みて恨みて人を ラジオかければ亡き音羽屋の 声も良く似た声色遣い 《丁度所も寺町の 娑婆と冥土の別れ道 その身の罪も深川の 橋の名さえも閻魔堂》橋の夜の雨 」と声色入り。作曲は、長唄の十四世宗家・杵屋六左衛門。髪結新三を扱った芝居小唄は他にいくつもあるが、この唄が出ることは比較的少ない。「眼に青葉 山ほととぎす 初鰹」というのが一番よく唄われる。


 芝居は、河竹黙阿弥作で、外題は、「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」。大岡政談を題材にしたもので、髪結新三は六代目尾上菊五郎(音羽屋)の当り役中の当り役。吉井勇の小唄は、この芝居の大詰めのクライマックス「深川閻魔堂橋の場」で、遊び人で散々悪事を重ねた髪結いの新三に辱められた顔役の源七が、深川の閻魔堂で橋新三を待ち伏せ、命を寄こせと切りかかるのを、新三がせせら笑って匕首を抜きながら吐く名台詞が《丁度所も寺町の・・・・》。この菊五郎の声色がこの小唄の聴かせどころである。


 作詞者の吉井勇については、今更言うをまたないが、老いらくの恋で世間を驚かしたが、粋人としても知られている。作曲者の十四世杵屋六左衛門(明治33年~昭和56年)は、昭和30年に伊東深水の依頼により小唄「十代目」を作曲したのが始まりで、以後伊東深水や吉井勇の作詞による芝居小唄や舞踊小唄を数多く作曲した。


 六代目菊五郎の声色がこの小唄の聴かせどころだと言ったが、私はこの芝居は何べんか見たことはあるけれど、音羽屋の台詞がどんなだったか覚えていないしテープもない。中村勘三郎のテープなら持っているからそれで勘弁してもらう。

 

韓国旅行記

 5月7日~10日(日~水)、3泊4日の韓国旅行が無事に終った。私にとっては初めての韓国旅行で、単に眼、舌、耳を楽しませてくれる旅でもなく、また、さすらいの旅でもない。インドから始まったアジアの文明が極東の島国、日本にたどり着く前に通った道筋、そこに朝鮮半島があり韓国がある。その通り道を一目見てみたい、その匂いをほのかでも嗅いでみたいという願望が私を韓国の旅に駆り立てた。


 勿論3泊4日などという短い期間に多くを望むのは無理であるが、それはそれなりに収穫はあったと思う。私達が選んだツアーコースが、人気の高い韓流メロドラマのロケ地巡りではなく、どちらかと言えば地味な歴史と世界遺産探訪コースで、キム(金)さんという女性のベテランガイドが付いてくれたこと、ツアーメンバーが私達6名だけだったこと、お天気もまあまあだったことなど、すべていい条件が重なり楽しい旅を味わうことが出来た。


 5月7日、新宿発9:40の成田エキスプレスで10:57終点・成田空港着。4階の出発ロビーに集合。手荷物検査、出国審査を済まし、13:55発KE714便、エコノミークラスで釜山に向かう。途中機内食が出たが、握り鮨のごはんがぼろぼろで不味かった。16:00釜山空港着。朝鮮半島最南端の釜山は、人口380万、韓国第2の都市。市内には高層ビルが立ち並び、日本よりも活気が感じられる。先ず街の中心部の高台から釜山の市街が一望で見渡せる龍頭山公園を尋ねる。朝鮮を攻めた豊臣秀吉の水軍を打ち破った李舜臣の銅像が日本を向いて立っている。このあと熱気溢れるチャガルチ市場(海鮮市場)に立ち寄り、港のレストランで海鮮鍋とチジミで夕食。8時頃、ウエスチンホテルに到着。


 2日目5月8日、バイキングで朝食を済ませ、9時バスで出発。1時間半で慶州着。慶州は、朝鮮半島の古代国家、新羅の首都であった所。日本の奈良に匹敵する街。世界遺産・石窟庵、天馬塚チョムソンデ古墳公園、民族工芸村(登り窯)、世界遺産・仏国寺を見学。途中のレストランで参鶏湯で昼食、宮廷料理の夕食と民族舞踊鑑賞。9時頃ヒルトンホテル着。一日歩き廻って疲れた。


 3日目5月9日、朝食後9時出発。バスで約1時間で東大邱へ到着。ここから高速鉄道KTXでソウルへ。11:40ソウル到着。ソウルは人口1000万で韓国の首都。高層ビルは東京より多いくらい。郊外のレストランで石焼ビビンバで昼食の後、漢江を挟んで北朝鮮が見渡せる<統一展望台>を見に行く。ソウル市内に戻り仁寺洞(骨董品・雑貨市場)見学。夕食は骨付きカルビだったが、肉が固いのには閉口した。コンチネンタルホテルに宿泊。


 4日目5月10日、このホテルの朝のバイキングの豪華なのには驚いた。宿泊客は大部分外国のビジネスマン。私達はこの日、帰国するのだが、帰国便KE705の出発18:40まで時間があるので、特別オプションでソウル市内を見物することになり、国立民族博物館と旧朝鮮王朝の宮殿・景福宮を見学することになった。国立民族博物館はごく最近出来た建物で、国宝の仏像など韓国の古代文化遺産が数多く展示されていて大変参考になった。景福宮の古い建物は、文禄・慶長の役で秀吉軍に焼かれてしまったが、その後再建され、日韓併合まで李王朝の宮殿であった。1910年の日韓併合後建物は撤去されたが、1990年以後逐次復元されている。景福宮見学をもって今回の韓国旅行のスケジュールは終わり、夕刻成田に向かってソウル空港を飛び立った。


 今回の韓国旅行で受けた印象は、①都市の高層ビルや郊外の高層マンションの群れ等を見ると、韓国の経済は上昇気流にあることを感じさせる。②韓国人のマナーとして年寄には親切。③にんにく臭くなく清潔。などであるが、日本と本質的に違う点はどこかということを考えさせられた。その答になるかどうか判らないが、韓国が東洋文化の通過点であり、日本は島国で東洋文化の終着点あることによるのではないか。その結果、韓国は日本より歴史が古く、大陸的で儒教の精神が残されているが、日本は島国根性的なところがあり、どちらかと言えば独善的であると言えるのではないか。小泉首相が靖国にこだわり続け国益を損じているのもそんなところから来ているのかもしれない。



連休を孫たちと

 GWの5月3日, 4日と、娘夫婦が二人の孫を連れてやって来た。孫は二人とも女の子で、上のほうが彩佳という名で、大学の二年生、下のほうはユリ奈という名で、今年公立高校を受験し、見事合格した。二人とも可愛いい。両親は、栃木県の矢板市に住んでいて、夫婦で学校の先生をしている。二人とも同じ大学の同窓で、恋愛結婚である。卒業して間もない頃、二人で私の家へやって来て、私達は結婚することに決めましたからご報告いたします、というから、開いた口が塞がらなかった。本人同士は、同じ学校で同じコーラス部で付き合っていた仲だからいいだろうが、こちらには何の前相談も無く、相手のご両親やご家族のことは何も知らないのに、なんとまあ!と驚いた次第。


 遅ればせながら、相手のご両親のことやご家族のことなどを詳しく聞いたら、何と相手のご両親も学校の先生で、しかもご主人のほうは、教頭さんを勤めておられるとのことで、娘の嫁入り先としては、少し荷が重いのではないかと思った。子供は男の子ばかり三人。娘が結婚したいという相手は二番目で、兄貴は警察官。下の弟は未だ学生。警察官の家族がいる家ならば先ず安心だと思った。幸い先方のご両親のお眼鏡にも叶って、お仲人さんは、市の教育委員の方が引き受けて下さり、結納から結婚式の日取りと、とんとん拍子に事が運んで、やがて式当日となり、式場のある宇都宮まで家内と一緒に出かけて行った。


 結婚式は、大勢のお友達や親戚の方々に祝福されて、賑やかに行われた。ちょっと変わった趣向として、花嫁とその母親が障子の後ろからシルエットで、別れの杯を酌み交わすところを写しだすシーンがあったが、そのとき私が民謡の「お立ち酒」を尺八の伴奏で歌った。この唄は、娘を送り出す父親の気持を歌った唄である。私としては、精一杯の気持を込めて歌った積りであるが、果たして娘にそれが届いたであろうか.。


 かくして二人は結婚し、二人の可愛い孫が生まれた。それがもう年頃になって来たのだから、月日のたつのはなんと早いものかと思う。私も八十路の坂を越えて身体の衰えを嘆く此の頃である。この上、私の望みは、あと数年で、私が元気な内に、孫たちの結婚式に列席し、そして早く曾孫の可愛い顔がみたいということである。


読者の発言

先日、某新聞の読者欄に、「愛国心」について投書したが、予想の通り編集係りのお気に召さなかったらしく、没になった。折角書いた原稿だから、棄ててしまうのも、心残りなのでブログに載せることにした。


 「自民党は、教育基本法改正案を、28日にも閣議決定し、国会に提出の見込のようだが、超党派国会議員三百数十名を擁し、森喜朗前総理を最高顧問とする《教育基本法改正促進委員会》は、改正案における新条文(教育の目標)に《愛国心の涵養》を明記しなければ、独自に対案を提出し、議員立法も辞さない構えである。改正促進委員会が、究極的に何を考えているのかと言えば、《国のため死ねる人》を作るのが教育の目標で、更にこの先憲法を改正し、《国のため死ねる人》を戦わせる機構つまり軍隊を作るという訳である。そうなるといずれその先は徴兵制度の復活ということになるだろう。《愛国心の涵養》とは、つまり国民を国家戦略の道具とするため洗脳しようとする意図と読み取れる。国民は果たしてそれでよいのか。」


 「教育基本法」改正問題については、21日のブログに載せたから重複は避けるが、不思議でならないのは、フランスやイギリスなどの外国では、若者達が、就職や移民や、兎に角自分達の問題について大騒ぎするのに、日本では何の騒ぎも起きず、知らない内に、日本の将来の運命を左右するようなことが政治権力で決められてゆく。これは一体どういうことなのか。マスコミは眠っているのかと思う。今にして思えば明治ー大正ー昭和と、日本が戦争に引きずり込まれて行ったのも、国家権力を笠に着た指導者たちの罪であろうが、そのため大きな犠牲を強いられたのは国民である。国民の犠牲は再び繰り返してはならない。観念的な不戦論を唱えるよりも、暴走する国家権力をコントロールすることの方が大切ではないか。

小唄人生

 kankianさんのブログの記事にある、偶々武相荘で発見した白洲正子筆「梁塵秘抄」の一節は、平安末期、政略に明け暮れた後白河法皇も、思いもよらず粋なお方だった?と思わせる。そこで下手な一句、《法王も 偶には今様口ずさみ》。後白河法皇が編纂されたと伝えられる梁塵秘抄の今様は、白拍子などの女芸人が舞いながら歌ったもの。義経を慕う静御前が、鶴岡八幡宮で舞いながら歌った「静や静 静の苧環繰り返し」の今様も、どんな節で歌ったのかはっきりはしないが、凡そ想像はできる。私は、今様は小唄の元祖だと思う。


 上方から始まった芸能が江戸へ移ってきて歌舞伎芝居が盛んになり、三味線が出現したのもこの頃である。芝居の中で唄われる唄として、清元、常磐津、新内、一中、園八、荻江、河東など色んな節が開発された。これに対し、お座敷で唄う唄で、三味線に乗せて、短くて早間で唄う唄が花柳界で流行り、これを江戸端唄という。明治の初め、清元お葉という天才が現れて、スポンサーであった松平不昧公の短冊「散るは浮き 散らぬは沈むもみじ葉の 影は高尾か山川の水」の最後に「の流れに月の影」と継ぎ足し、今までの常磐津にも清元にもない新しい曲を付けた。これが江戸小唄の始まりで、今でも古典小唄の名曲としてよく唄われている。


 江戸小唄の古典は、端唄から引き継いだものが多い。「腹の立つときゃ茶碗で呑みな」、「伽羅の香りとこの君さまは」、「初雪に降り込められて向島」、「春雨に相合傘の柄守して」、「雨や大風」、「秋風誘う」、「逢うて別れて」、「二人連れの漫才」、「二人が仲」とか、端唄には、上方から来たのもあってきりがない。作詞者の判らない小唄は殆ど端唄の出である。


 明治、から大正、昭和にかけて、高杉晋作、榎本武揚、尾崎紅葉、川上渓介、十代目市川団十郎(市川三升)、伊東深水、久保田万太郎、西条八十、竹久夢二、英十三、花柳章太郎、吉井勇などのお歴々が新作小唄をものし、小唄も次第に盛んになりかけたが、日支事変、太平洋戦争で小唄どころではなくなり、一時小唄の灯も消えた。戦後は、奇跡的経済発展と共に小唄も復活し、昭和30年代は、サラリーマンの3ゴ(ゴルフ、囲碁、小唄)時代と呼ばれ、空前の小唄ブームが出現した。赤坂、新橋、神楽坂などの料亭街は、軒並み三味線の音で賑わった。《赤坂の糠みそ漬けは皆腐り》 今にして思えば夢のようである。



教育基本法

 13日、自民、公明両党による大論争の末、教育基本法改正案の与党案が纏った。改正案の要点は、①教育の目的について現行法(昭和22年制定)は、個人の資質を育むことに偏り過ぎており、新たな目標として郷土愛、祖国愛の育成を盛り込む。②「生涯教育」、「家庭教育」、「幼児期の教育」、「学校、家庭及び地域住民等の連携協力」などの条文を新たに追加した。


 自民党・武部幹事長は、早速、安倍内閣官房長官に与党合意案を提示し、今国会での成立を目途に法案作成を急ぐよう要請した。安倍官房長官もこれを受けて、直ちに法案化作業を進めたいと応えた。


 今回の与党合意による「教育基本法改正案」の最大の問題点は、自民・公明両党が膨大な時間を掛けて議論した、教育目標としての「愛国心」明記の問題である。最近有識者の間で、戦後60年、道徳の荒廃が目立つのは、教育の基本が間違っているからではないかと指摘され、中曽根元総理などを中心に、教育基本法の見直しが叫ばれるようになった。そして新たに教育目標として「愛国心」の明記を主張する自民党案に対し公明党は、「愛国心」はナショナリズムを誘発するとして強く反対した。ベストセラー「国家の品格」の著者・藤原正彦氏も、明治以来の忠君思想に繋がる「愛国心」などと言う言葉は、今すぐ廃語にすべきだと新聞記者に語っている。結果として与党合意案は、「郷土愛、祖国愛」という表現になったが、これで国会で承認成立するかどうかは疑問。


 というのは、国会議員の間で、超党派による議員連盟、「教育基本法改正促進委員会」というのがあって、教育目標としての「愛国心」明記を強く主張しているからだ。「教育基本法改正促進委員会」とは、教育基本法改正機運を高める目的で、超党派による国会議員をメンバーとし、今年の2月に設立されたもので、森喜朗前総理を最高顧問、亀井郁夫参議員議員を委員長とし、平沼赳夫、町村信孝、麻生太郎、西岡武夫、西村真吾などが顧問に名を連ね、国会議員378名が参加、どちらかというと国粋主義的集団で、改正案の教育目的に「愛国心の涵養」が明記されない場合には議員立法も辞さないという構えだ。


 教育基本法改正促進委員会が、何故これ程迄に「愛国心の涵養」執着するのかというと、促進委員会の主流が「教育勅語」の信奉者だからである。日本の国体は、天皇を中心とする忠君愛国が根本理念で、それが道徳の基本とされる。戦後はそれが崩れ、そのため道徳が荒廃した。だから教育の目標に「愛国心の涵養」を掲げることが必要だという訳である。教育基本法改正促進委員会の設立総会で西村副委員長は、「愛国心教育」で「国のため死ねる人」を作り、そして「国のため死ねる人が戦う機構」即ち国民の軍隊を考えなければならないと述べた。公明党が考えた素朴な「祖国愛」とは、鷺と烏の違いである。国のため命を捧げた人があったからこそ、今の祖国があるのだと子供に教えることが大事だとも述べている。


 憲法を改正して自衛軍を創設し、国のため死ねる国民を作り上げる。これは再び日本国民を戦争に駆り立てる軍国主義教育だと言われても仕方がないようだ。それに、再び徴兵制度の復活が匂って来る。こんな情勢を前にして、日本の若者達はこれでよいのかと問いたい。天皇の名のもとに日本人が多く犠牲になったから今日の日本があるのではない。生き残った者たちが必至で働いたから今日があるのだ。政治家たちの不条理を許すべきではない。教育の目的は真、善、美の追求でなければならない。

ふみあと旅行会

 私が関係している「ふみあと旅行会」の今年の計画は韓国旅行である。同じ旅行会の仲間で、韓国の会社に勤務していた入山さんと言う方が世話役で、JTBの歴史探訪ツアーに参加し、釜山ー慶州ーソウルという3泊4日のコース。出発は5月7日(日)、参加者は私達夫婦を含め6名。ほんのちょっぴりといった感じの手軽な旅で、多くは期待できないが、兎も角初めて韓国の土を自分の足で踏んだという実感が得られれば満足と思いたい。


 考えて見ると、この年になるまで、韓国へ行って見ようなどと思った事は、殆ど無かったと言ってもよい。地理的に一番近い外国であり、歴史的にも、極めて深い関係にありながら、余りにも韓国のことを知らなさ過ぎた。学校で、ヨーロッパの歴史は習っても、韓国の歴史や日本との係わり合いなどについて、深く教わることは無かった。日本の古代に、大陸から、より高い文化を持った民族が、朝鮮半島を経由して日本に渡来したに違いない。出雲王国の先祖は韓国からの渡来民族だという説もある。しかし、日本を含むアジアの古代史に関する私達の知識は余りにも乏しい。


 2年前に会社勤めを辞め、大腸の手術で入院している間に古事記を読んでから、日本の古代史に少し興味を持つようになった。今年は、自分のため、家族のため、友人達のため、ブログをやるようになってから、歴史や世界の色んなことに改めて興味を持つようになった。韓国についてもっと知りたいと思ったのもその一つである。


 第一が言葉である。韓国語の文法は、中国語よりも日本語に近いと言われているが、文字は全く別である。例のハングル文字と言う奴を少しづつ齧り始めた。出発までには、簡単なあいさつくらいは出来るようにしたい。「アリラン」、「釜山港に帰れ」など韓国の歌も幾つか知っているが、韓国の歌は哀愁を帯びたものが多い。韓国の歴史は、虐げられた歴史が多かったせいかも知れない。