小唄人生
kankianさんのブログの記事にある、偶々武相荘で発見した白洲正子筆「梁塵秘抄」の一節は、平安末期、政略に明け暮れた後白河法皇も、思いもよらず粋なお方だった?と思わせる。そこで下手な一句、《法王も 偶には今様口ずさみ》。後白河法皇が編纂されたと伝えられる梁塵秘抄の今様は、白拍子などの女芸人が舞いながら歌ったもの。義経を慕う静御前が、鶴岡八幡宮で舞いながら歌った「静や静 静の苧環繰り返し」の今様も、どんな節で歌ったのかはっきりはしないが、凡そ想像はできる。私は、今様は小唄の元祖だと思う。
上方から始まった芸能が江戸へ移ってきて歌舞伎芝居が盛んになり、三味線が出現したのもこの頃である。芝居の中で唄われる唄として、清元、常磐津、新内、一中、園八、荻江、河東など色んな節が開発された。これに対し、お座敷で唄う唄で、三味線に乗せて、短くて早間で唄う唄が花柳界で流行り、これを江戸端唄という。明治の初め、清元お葉という天才が現れて、スポンサーであった松平不昧公の短冊「散るは浮き 散らぬは沈むもみじ葉の 影は高尾か山川の水」の最後に「の流れに月の影」と継ぎ足し、今までの常磐津にも清元にもない新しい曲を付けた。これが江戸小唄の始まりで、今でも古典小唄の名曲としてよく唄われている。
江戸小唄の古典は、端唄から引き継いだものが多い。「腹の立つときゃ茶碗で呑みな」、「伽羅の香りとこの君さまは」、「初雪に降り込められて向島」、「春雨に相合傘の柄守して」、「雨や大風」、「秋風誘う」、「逢うて別れて」、「二人連れの漫才」、「二人が仲」とか、端唄には、上方から来たのもあってきりがない。作詞者の判らない小唄は殆ど端唄の出である。
明治、から大正、昭和にかけて、高杉晋作、榎本武揚、尾崎紅葉、川上渓介、十代目市川団十郎(市川三升)、伊東深水、久保田万太郎、西条八十、竹久夢二、英十三、花柳章太郎、吉井勇などのお歴々が新作小唄をものし、小唄も次第に盛んになりかけたが、日支事変、太平洋戦争で小唄どころではなくなり、一時小唄の灯も消えた。戦後は、奇跡的経済発展と共に小唄も復活し、昭和30年代は、サラリーマンの3ゴ(ゴルフ、囲碁、小唄)時代と呼ばれ、空前の小唄ブームが出現した。赤坂、新橋、神楽坂などの料亭街は、軒並み三味線の音で賑わった。《赤坂の糠みそ漬けは皆腐り》 今にして思えば夢のようである。